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太平洋の奇跡 (上) [映画レビュー]

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太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-
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『 太平洋の奇跡 』
( 2011年 東宝 128分 )
監督:平山秀幸 脚本:西岡琢也/Gregory Marquette・Cellin Gluck 主演:竹野内豊

          Official Wikipedia / KINENOTE          

(P)太平洋の奇跡

本作のレビューを執筆するにあたっては、作品が有するテーマとその表現方法を明確に分けて書く必要があると感じています。プレビューで書いたとおり、私はこの映画は決して「反戦映画」ではないと考えます。実は日本人にとって「反戦」というテーマで映画を作ることはそんなに難しい作業ではないし、受け取る側もそれを汲み取る作業は決して困難なものではありません。日本人の戦争に対する認識、価値観はすでに成熟しきっており、戦後65年を経た今、先の大戦を描くことで反戦を訴える映画を製作する意味はほとんど見出せません。それよりも、今だからこそ映画を通して語られるべき戦争の姿、あるいはあの戦争の真実というものが必ず存在すると思っていて、本作こそがその表現に果敢に挑戦した作品ということになると思います。ただし、我々日本人があの戦争を語り、あの戦争の真実を理解するにあたって、本作のような表現方法を用いなければならなかったことに私は複雑な気持ちでおります。そのあたりことは後段で述べるとして、まずは本作のテーマを深く掘り下げなければなりません。

< ----- 以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。----- > 

本作は、主人公の大場栄大尉(竹野内豊)があの戦争を如何なる信念の元に如何様に戦ったのかを描くことで、かつて日本人が当たり前のように保持していた精神や日本人の尊厳といったものを表現していると考えられます。いささか大げさかもしれませんが、日本人がかつてあった日本人の姿を描くのですから、臆することなく表現すればいいことだし、少なくとも私は本作のテーマについて自信を持って語るつもりでおります。

本作のテーマは、サイパン島で終戦後も信念を持って戦った大場栄大尉の「帝国軍人としての行動論理」を描くことで成立していて、表現としては現代的価値観に基づくバイアスを排除する必要があったと思います。たとえば『真夏のオリオン』(2009年 東宝)が決定的に失敗しているのは、主人公の行動論理が「軍人である前に人間である」という観点で描かれてしまっている点で、彼の行動は平たく言えば「命を大切に」という現代的価値観に支配されてしまっています。そのような描写は、現代に生きる我々にはとてもわかりやすいものだし、共感を得やすいのかもしれませんが、あの戦争を戦った人たちの姿を的確に描いたものとは到底言えるはずもありません。

本作の主人公・大場大尉の言動は、かの作品とは対照的で、あくまでも「人間である前に軍人である」という論理に基づいており、これは最前線で戦う指揮官が常に保持していなければならない考え方なのだと思います。本作ではそのような大場大尉の行動論理が的確に表現されたシーンが序盤にしっかりと盛り込まれていました。アメリカ軍に容易に上陸を許した日本軍が追い詰められ、最後の総攻撃が決定したとき、尾藤三郎軍曹(岡田義徳)が海軍部隊に対して「玉砕」を主張します。そんな尾藤に対して大場大尉は、死ぬための戦闘と勝つための戦闘はまったく意味が違うと諭すのです。大場大尉が「玉砕」を許さなかったのは、なにも「命を大切に」と言いたかったのではなくて、最後まで「勝つこと」にこだわって戦おうとする指揮官の姿勢が現れたものです。実際、硫黄島で日本軍守備隊を指揮した栗林忠道中将が部下に対して玉砕を禁じたのは、1日でも長くこの島にアメリカ軍を足止めしておくという戦略上の目的がありました。私はこのシーンは大場大尉の「軍人」としての行動論理を序盤からはっきりと印象付けるために存在していると考えています。

また、本作のストーリーを語る上で、序盤に大場大尉が助ける赤ん坊の存在は大変興味深いところです。大場大尉が民家で赤ん坊を発見するシーンは、大場大尉の軍人としての側面と自らも子を持つひとりの人間としての側面が入り混じり、それでいて両者をしっかりと描き分ており、大場という人物像を的確に表現することに成功しています。重要なのはこの時の大場大尉は軍人でなければならないということで、あの状況で大場大尉が赤ん坊に対してしてやれることとは、水を与えて「生きろ」と声をかけ、アメリカ軍にわかるように目印をつけておくことなのです。

大場大尉が軍人である前にひとりの人間であるならば、単に同情の念を持って直接的にその命を救うという選択をするべきでしょう。逆に彼の軍人としての任務を考えれば、見て見ぬふりをするか、自らの手で赤ん坊の命を絶つという選択肢もなかったわけではないと思います。実際に大場が為したことは、言って見れば赤ん坊の行く末を天命に委ねるものであり、あの時点で赤ん坊を助けるための最良の行為です。そして何よりも彼の複雑な立場を両立させる最良の選択なのです。実際、アメリカ海兵隊のハーマン・ルイス大尉(ショーン・マクゴーウァン)は、この大場大尉の行為を賞賛し、大場の軍人としてのクレバーさと人間らしさに敬意を表します。大場大尉はその後も民間人との距離感に腐心しますが、あくまでも軍人としての立場から民間人の命を救うためにその時々で最良の選択をしており、彼の行動論理はこのシーンから一貫してぶれることはありません。

そのような大場大尉の行動論理のバックボーンとなる「日本軍の矜持(きょうじ)」といったものがもっとも巧みに表現されていたのが、終盤、大場大尉とルイス大尉が会談するシーンだったと思います。このときの大場大尉は「事実上の降伏」を決意しているわけですが、最初から最後まで帝国軍人としての凛とした態度を崩すことがありません。それは、大場大尉がジャングルの中から姿を現した瞬間から始まっていて、日本軍の誇りを一身に背負ったかのような大場大尉の佇まいを竹野内豊さんが見事に表現していました。

「我々は降伏はしません」

大場大尉は毅然と言い切ります。ただし、上官の命令があれば山を下りる・・・これは紛れもなく「降伏」を意味するわけですが、彼らは絶対に「降伏した」とは言わないわけです。ここで言う「上官の命令」とは、もはやきわめて形式的なものにすぎず、それがあろうとなかろうと結果は同じなのです。しかし、当時の日本軍というものはあの戦争を通じてあくまでも「面子(めんつ)」にこだわって戦った組織でした。そのことは最前線で戦った将校にも徹底的に行き届いており、実際フィリピンのルバング島で戦後29年間戦い続けた小野田寛郎少尉もまったく同じように最後まで降伏はせず、上官の命令の下に投降したのです。この日本軍の面子というものがあの戦争をもたらした一因であることも我々は知っておかなければなりませんが、大場大尉が最後まで愚直なまでに「日本軍の矜持」を守ろうとした意味にも想いを巡らせなければなりません。そして、それを尊重し、勇戦した日本軍を称えたアメリカ軍の懐の深さにも心揺さぶられます。

そして、大場大尉が助けた赤ん坊の存在が最終的に本作が意図したメッセージを語るために存在していたことに我々は気が付かなければなりません。ラストシーンで赤ん坊を抱いた大場大尉が水平線の彼方にある祖国を思い浮かべながらつぶやきます。

「この子はまだ日本を知らないんだ」
「私が教えます」

このまとめはもちろんストーリー上は青野千恵子(井上真央)がこの子を育てていくという決意表明ということになりますが、私はここに作り手が意図した現代に生きる日本人に対する痛烈な皮肉が込められていると考えています。作り手が「子供を育てる」ことを「日本のことを教える」として、やや婉曲的な表現でまとめとした意味は、これをこの物語が描いてきた「日本人の誇り」を子供の世代に伝えていかなければならないという我々に対するメッセージとしているからだと思います。つまり、現代に生きる日本人は、かつて我々日本人が誇りとしていた価値観、さらには日本の文化・歴史について、赤子同然の知識しか持っていないのではないか、という皮肉にもとれると私は考えます。飛躍した解釈かもしれませんが、それらを自信を持って「知っている」と言える日本人がどれだけいるでしょうか。我々はこの映画をきっかけとして、謙虚にゼロから日本のことを学び、日本人であることに誇りを持たなければなりません。

次回、冒頭で私が複雑な思いでいると申し上げた本作が用いた基本的表現手法および演出に言及してまとめとしたいと考えています。もう少しお付き合いください。

関連記事 : 太平洋の奇跡 (追記)(2011-08-22)
太平洋の奇跡 (コメント欄より)(2011-03-06)
太平洋の奇跡 (下)(2011-03-01)
(P)太平洋の奇跡(2011-02-10)


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(6)大切なことはすべて君が教えてくれた [ドラマレビュー]

2011011801.jpg 

『 大切なことはすべて君が教えてくれた 』
第6回
( 2011年 フジテレビ 公式サイト
演出:西浦正記(FCC) 脚本:安達奈緒子 出演:戸田恵梨香、三浦春馬、武井咲

今回は三浦春馬くんへのダメ出しのレビューとさせていただきます。
当ブログのレビューでは俳優さんのお芝居は褒めこそすれ、ダメ出しはできるだけ避けるようにしているのですが、
その理由は、俳優さんのお芝居の質については当人だけでなく、監督の責任も大きいと考えているからです。
私が俳優さんのお芝居を論じるときは、まずは監督がどういう演出をして、どういう撮り方をしているかを考慮します。

以前にも三浦春馬くんのお芝居には少し言及しましたが、それで終わりにするつもりでした。
しかし、今週回を観て、彼のお芝居の質はもはや演出や役柄のせいには到底できず、
純粋に彼自身の俳優としての表現力の問題であることを再確認してしまいました。
これはこのドラマのクオリティを決定付ける重要事項ですので改めて言及します。

前回のレビューで本作の脚本が小手先の台詞で物語を展開させる稚拙な手法で成立していることに触れましたが、
そういう印象を持ってしまうのは、三浦春馬くんのお芝居にも大いに原因があると感じています。
そのことを実感したのが、今回、柏木修二が佐伯ひかり(武井咲)と会話をする二つのシーンで、
彼と武井咲ちゃんのお芝居の対比で思いがけず、あまりにもわかりやすく思い知ってしまいました。

仕事復帰の日に修二とひかりが久々に会話をするシーンは、二人がそれぞれの心の傷を語り、
その似通った心情に二人の精神的な距離が縮まるという意味合いがあると考えられます。
それなのにひかりは転校をもって修二と決別することをすでに決意しており、
この相反する二つの要素がこのシーンの切なさだと思います。
このシーンは、二人を道路を挟んだ横断歩道の両端に立たせるという演出が大変効果的で、
ひかり自らが道路分の物理的な距離を作り、気丈にはっきりと修二に別れを告げるところが切なさを際立たせています。
このシーンは第3話でひかりが「欠陥品なの・・・」と吐露するシーンと並ぶ名シーンだと思います。
ある一点を除いては・・・

武井咲ちゃんがこのシーンの意味をよく理解して臨んでいることは、
台詞というよりも、その端々で瞬間的に見せる表情から伝わってきます。

 「先生は戻れるよ・・・」 2011022301.jpg

この台詞は、その後発せられる修二に対する決別の言葉への「助走」の意味合いがあります。
「ちゃんと先生に言わなければならない・・・」という気持ちがこのときの表情に吹き込まれなければならないのです。
演出的にはこの表情を押さえるためにわざわざカットを変えており、
「登場人物の台詞」ではなく、「女優さんの表情のお芝居」から我々はその心情を汲み取るのです。
私は武井咲ちゃんがほんの一瞬でもこの表情を表出させることができるところが、彼女がひとつひとつのシーンや台詞に
どういう意味が込められているのかを的確に解釈してお芝居に臨んでいる証拠だと思っています。
彼女が表現したこの前後の表情の移り変わりもぜひもう一度ご覧ください。

それに対して、三浦春馬くんはこのシーンで表情のお芝居というものを見事に一切していません。
彼の意識ではしているつもりなのかもしれませんが、何も伝わってこないのですから何もしていないのと同じことです。
このシーンにおける彼の表情は終始、みなさんもう「お馴染み」のこれです。

 2011022302.jpg

これはこのシーンのラスト、修二が走り去るひかりを見送る表情ということになりますが、まさに「無表情」。
この表情を見る限り、この男は感情というものがないのだろうか、と思わずにはいられません。
ひかりがどういう気持ちで「ひとりの方が楽」と言って別れを告げたのか、
この男に理解できているとは、少なくともこの表情からは到底感じ取ることができません。

俳優の仕事とは台詞を覚えて口に出し、とってつけたような表情を当てはめていくというようなものなのでしょうか。
否、それ以前にもっと重要な作業があるはずです。台本を読み込んで、そのシーンで何を表現しようとしているのかを解釈し、
演じている役柄の感情を深く掘り下げなければならないのです。その作業があって初めて、
役柄の感情がお芝居に表出してくるのであって、俳優の表現力とは想像力に基づいていなければなりません。

修二はこのシーンのラストで、この半年間、自分以上に苦悩したに違いない彼女の気持ちを思い知ったのです。
それなのに自分は学校を辞めて、彼女の前から逃げようとまで考えていた・・・自分の不甲斐なさと彼女への同情。
私はこのラストで、修二の心情をそこまで表現するべきだったと思っています。
しかし、何度見てもこの表情に役柄のどんな気持ちが込められているのか、いかなる解釈も不可能です。
さらに言えばこのショットには、ひかりの心情を間接的に際立たせる役割もあるはずで、
これでは、ひかりの言葉が修二にまったく届いていないということになり、
それまでの武井咲ちゃんのお芝居までも台無しにする「実害」すら持っていると思います。

もうひとつ、この後、教室で二人が会話するシーンもまったく同じ構図で、
表情の微妙な移り変わりで役柄の繊細な感情を表現しようとしている武井咲ちゃんと、
終始抑揚のない表情でいかなる感情も伝わってこない三浦春馬くんのお芝居の対比は一目瞭然です。

これは台詞についても同じことが言えて、彼がひとつひとつの台詞を的確に解釈できているとは私には思えません。
彼のお芝居は台詞に役柄の感情が乗っておらず、
脚本がと言うよりも、まるで彼自身が「台詞で言えばそうなる」と考えているかのようです。
脚本が台詞頼りなのも否定できないとは思いますが、
なによりその台詞を口にする俳優の意識がこれでは、キャラクターの感情の深みを表現できるわけがないし、
役柄の気持ちが薄っぺらなうちは視聴者だって主人公に感情移入することは不可能でしょう。

彼のお芝居が何も表現できていないのは、彼自身の想像力の欠如が露呈したものであり、
もっと言えば多くの人の感情に触れてこなかった人生経験の浅さに起因するものだと思います。
やっぱり彼にはこの役はまだまだ早かった、その一言に尽きるかもしれません。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ 

2011022303.jpg今週はストーリー上、半年間というブランクが存在しており、
季節は変わって明稜学園高校の女子生徒たちも赤いPコートを着用していました。
改めて言いますけど、私立とは言え、まるでアニメに出てきそうな制服ですね。
そもそもニーハイソックスって・・・あれは絶対に西浦監督の趣味ですよ(^^;。
私も嫌いじゃないので、内心はむしろ賞賛しているところですが、
その制服をプレゼントするという発想は、フジテレビらしいものです。
どんな人が応募するんでしょうか。
ちなみに私は応募してませんので・・・念のため(^^;。

えー、購入もできるようです。恐るべし、フジテレビ・・・
http://eshop.fujitv.co.jp/product/category/B001100-1.html

関連記事 : (10)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-03-30)
(9)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-03-24)
(8)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-03-09)
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(1)大切なことはすべて君が教えてれた(2011-01-18)


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Twitter 20110218 [Twitter]

  • e97h0017e97h0017武井咲インタビュー。>修二みたいな男性をどう思いますか?>あんな先生がいたら、行きます!(笑)。 修二先生は人気者じゃないですか。我先にと先生の前に出て、夜遅くまで勉強したりとかすると思います(笑)。ありえん・・・と思いつつ、そう思ってなければこの役は演じられないよな、とも思う。02/17 15:27

(参考リンク)
「大切なことはすべて君が教えてくれた」武井咲インタビュー
http://www.fujitv.co.jp/kimigaoshietekureta/interview/index02.html


(5)大切なことはすべて君が教えてくれた [ドラマレビュー]

2011011801.jpg 

『 大切なことはすべて君が教えてくれた 』
第5回
( 2011年 フジテレビ 公式サイト
演出:葉山裕記 脚本:安達奈緒子 出演:戸田恵梨香、三浦春馬、武井咲

やっぱり先週のあれは「茶番」だったわけです。そして、やっぱりこれは稚拙な脚本なんだと思います。
事の真相をあきらかにするのに登場人物に10数分間も語らせるのはナシでしょう。
初回の冒頭に始まった「謎」は、回を追うごとに次第に明らかになり、視聴者もそれなりに想像力を働かせていたと思います。
しかし、このドラマは結局、たった10数分間で多くの新事実を提示して、すべての謎に決着をつけてしまったわけです。
じゃあ、今までのは何だったの?やはりこのドラマの前半部分は佐伯ひかり(武井咲)が主人公だったのではないのか?

とにかくこの脚本は台詞(またはナレーション)に頼りすぎていると思います。
特に柏木修二(三浦春馬)の台詞はきわめて不自然。直感的に感じたことをすぐに口に出している印象で、
彼の言動は客観的に見れば、迂闊、思慮の欠如、言行不一致・・・およそ一般常識のある社会人のものではありません。
ましてや彼は教師なのです。前回取り上げたひかりに対する「君に会いたくなった」がその最たるもので、
ここには教師と生徒という関係性が微塵も介在していません。

主人公の不自然な言動が目立つのは、この脚本が台詞で物語を展開させようとしている証拠だと思います。
そして、そのことを確認したのが今回のラスト、事が落着して修二が夏実(戸田恵梨香)と会話をするシーンです。

 「佐伯にはいるのかな・・・今の佐伯にはこんな風に待っていてくれる人がいるのかな・・・」
この男、何ぬかしてやがんだ・・・・

おいおいおい、それは散々心配をかけた婚約者の前で言う言葉ではないだろう。
百歩譲ってそう思ったとしても、他の女を気にかけるような言葉を婚約者の前で口に出すか普通。
この台詞が意味するところは、要は物語に新展開を付与するためのものであって、
登場人物の意思というよりも、作り手の意図の方が色濃く反映されたものだと思います。
つまり作り手の意図を登場人物の意思として台詞で表出させてしまうから我々には「不自然」に映るんだと思います。

実際、この言葉を聞いた夏実は結婚式をキャンセルしており、
次回以降は予想通り、修二がひかりに惹かれていくという新展開に移行していくものと思われます。
上記は純粋に「そのために」考え出された台詞であって、修二というキャラクターは端から無視したものであり、
結果としてこの脚本は物語を展開させるために主人公を支離滅裂な人間にしているのです。

第1回から指摘しているとおり、このドラマが根本的欠陥を抱えている以上、
褒めるとすればピンポイントにならざるをえませんが、今回ばかりはどこを褒めていいのかわかりませんでした。
そんな中、本筋とは外れた部分ですが、ぜひ取り上げておきたいのが修一の兄・孝一を演じた新井浩文さんのお芝居です。

孝一についての私の想像がほぼドンピシャだったのには笑ってしまいましたが、
結果的に物語の本筋とはほとんど関係ないというか、さして重要ではなかったのも、
ひかりが自身で事の真相をすべて語ってしまったからで、なんだか随分思わせぶりな役でした。
孝一は弟への嫉妬心を語り、その代わりとして夏実から弟が何をしたのか聞き出します。

 「・・・・えっ?・・・・あいつが?・・・・フフフッ・・・・」
2011021601.jpg

この「間」のお芝居が本当に素晴らしい。驚きから弟への嘲笑への移り変わりをほんの数秒で表現しています。
この「間」には役柄の生きた気持ちが見事に吹き込まれており、これはとても映画的なお芝居ということになると思います。
新井浩文さんはその役柄とは裏腹に役者としての存在感はしっかりと示しており、
出番も少ないし、地味でしたけど、一人だけかなりハイレベルな仕事をしていたと思います。
孝一は役柄的にも俳優さん的にもこのままで終わらせるのはもったいないと思いますが、
この逸材を今後どのように活用していくのか、作り手の技量が試されるところだと思います。

佐伯ひかりについての全貌が明らかになったことで、
私としては今後このドラマの中身に関してはどこに興味を見出せばいいのかわかりません。
ひかりが好きな人はああいう人間ですし、そもそも絶対に報われない恋ですから、
ひかりを中心にこのドラマを観ている私にとっては、なんとも複雑な気持ちで見守らなければなりません。
ひかりの気持ちと事情を理解している同級生が男子だったら、まだそこに救いを求められそうですが、
そういう伏線を張っているとは思えません。強いて言えば、ひかりの前の席にいる児玉賢太郎(中島健人)でしょうか。
もしこの方面が膨らんだとしたら、それはそれとして作り手を褒めなければなりません。

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孤高のメス [映画レビュー]

孤高のメス [DVD]

[ DVD ]
孤高のメス
( TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D) / ASIN:B0041I4K3A )

『 孤高のメス 』
( 2010年 東映 126分 )
監督:成島出 脚本:加藤正人 出演:堤真一、夏川結衣、余貴美子、成宮寛貴、柄本明
          Official Wikipedia / Kinejun          


   【 孤高 】<名・形動(ナ・ノ)>
   俗世間から離れて、ひとり自らの志を守ること。また、そのさま。 (大辞泉 第1版より)

本作の作り手がこの映画のタイトルにこの単語を使用したことをまずは賞賛したいと思います。本作のテーマはこの言葉にきれいに集約されており、ひとりの外科医が医療や患者と向き合う姿勢を表現した言葉がこの「孤高」ということになります。本作の成功は、本編を通じてこの言葉の意味を的確に表現していくことに懸かっていたと思います。そして、そのことは主人公の外科医・当麻鉄彦(堤真一)の医師としてのポリシーや生き方を通して描かれているのは言うまでもありませんが、彼の存在がその周囲にもたらした影響にまで言及することによって、さらに明確に「孤高」という言葉が意味するところを表現しているところが、この映画を秀作たらしめていると思います。

本作の見所のひとつがリアルな手術シーンであることは、この映画の売り文句や前評判からも存じ上げていましたが、実際に観た感想としてもそれは確かに実感しているところです。ただし、その表現方法については、私は意外性をもって受け止めています。観る前の印象として「リアルな手術シーン」と聞いて多くの方が直感的に思い浮かべるのは、専門用語が飛び交うようなシリアスな手術室で、一刻一秒を争うような緊迫感あふれる場面、ということになると思います。これらは近年隆盛している医療ドラマが表現上重視していると考えられる要素であり、我々の潜在意識にいつの間にか植え付けられてしまっている「手術」というものに対する先入観は確実に存在しているのかもしれません。もちろん本作においてもそのような手術の側面が一要素として盛り込まれていたのも間違いありませんが、それをもって「リアル」としていないところが私が「意外性」と評した部分です。

それでは本作における手術シーンのリアリティがどうやって成立しているのかというと、私はその大前提として主人公をはじめとした医療従事者のリアルな存在感は不可欠だったと考えています。つまり、彼らがどういう心構えで手術に臨んでいるのかということを描かずして、手術シーンで彼らが駆使している専門用語や技術に登場人物の息遣いといったものは吹き込まれなかったと思います。そのような登場人物のリアルな存在感を表現するシーンとして最初に組み込まれているのが、看護師の中村浪子(夏川結衣)が滅菌した手術器具を乱暴に扱うシーンで、ここには仕事の現状に対する彼女の気持ちやストレスといったものが端的に現れています。仕事に対するモチベーションがそのまま仕事ぶりに現れてしまうということは、あらゆる職業において日常的にありうる風景であり、いきなりオペ看という仕事の負の側面を見せることによって、彼女のリアルな存在感を提示しています。

そして、そのような浪子の負の気持ちが当麻鉄彦との出会いによってまったく別のものへ変化していくとところがこの物語のひとつの側面だと思います。このシーンで浪子は、当麻に乱暴な器具の扱い方を指摘されて、仕事に対する負の気持ちと当麻に対する第一印象を重ねてしまいます。しかし、浪子はその後の手術シーンで、当麻の卓越した技術と患者を救いたいという情熱を目の当たりにして、それまでの仕事に対する負の気持ちを一気に真逆のものへ転換させてしまうのです。このあたりの浪子の心情の変化が、手術シーンの中で大変巧みに表現されていて、浪子のみならず、観る者の気持ちまでも、ひとつのピークに到達させてしまいます。

この手術シーンにおける浪子の台詞はほぼ「はい」だけです。当麻に最初のメスを渡すときの「はい」は、仕事へのモチベーションとともに当麻という人物に対する怪訝さが込められています。しかし、浪子は当麻の鮮やかな手さばきと冷静沈着な姿に目を奪われ、いつの間にか彼の素早いオペレーションに対応できなくなっていきます。そして、浪子の「はい」のトーンは次第に焦りの色を帯びていき、同じ言葉なのに最初の「はい」とはまったく別の響きに変わっていくのです。このシーンは、本作のストーリーの根幹を成していく「手術」というものがいかなるものなのかを表現する大変重要なシーンであり、ただ専門用語を聞かせたり、外科医の技術を見せるのではなくて、浪子の目を通して、当麻が手術に向き合う姿勢とその技術の本質を観客に見せることによって、当麻という外科医にリアルな存在感を付与しています。

これがテレビドラマなら誰かに「スゴイ」と言わせてしまうところですが、そんなことを言う余裕もないところに手術に臨む人たちのリアルな緊迫感が表われています。そして、これを浪子の「はい」という台詞のみで表現しようとしたこの脚本も素晴らしいし、なにより表現者である夏川結衣さんのお芝居を賞賛しなければなりません。ただ単に「天才外科医」で説明してしまうような医療ドラマが多い中、漠然とではありますが、当麻の技術に「天才」以外の裏づけを見出すことができるところが、本作の手術シーンのリアリティということになるのではないでしょうか。

さらに、当麻が卓越した技術を持つ外科医であることに説得力を持たせるためには、医療や患者さんに対する彼のポリシーに言及するほか、彼の「人間らしさ」を描写する必要があったと思います。フジテレビのドラマ『救命病棟24時』の主人公・進藤が第4シリーズにして「ピーマンが嫌い」であることが描写されたときには、いまさら何をやり始めたのかと思いましたが、それまで強行してきた、いまひとつ裏づけの欠ける「主人公の技術」のみで物語を牽引していくのが困難になったのだと思います。このことはシリーズの行き詰まりを象徴していたような気がしています。

本作では序盤の手術シーンの直後に、早々に当麻の人物像にはっきりと言及するシーンを盛り込んでおり、このシーンひとつで当麻という人物に外科医としてのリアルな存在感を付与することに成功しています。これは、大川市長(柄本明)の娘・翔子(中越典子)とのお見合いのシーンのことで、当麻のオペ技術をおだてる市長と島田院長(平田満)に対して、当麻は手術というものに対するポリシーを訥々と語りだします。手術は決して華やかなものではなく、一つ一つの作業をこつこつとやる、例えるなら「演歌」のようなものだと語る当麻の態度は、およそ既成の医療ドラマでは見たことがなかった性質のものであり、直前の手術シーンにおいて当麻のバックボーンに存在していたポリシーというものを知ることができます。そして、それに続く当麻の人間描写は、実に秀逸でした。

まず、このシーンにおける当麻は、ほとんど市長親子と目を合わすことなく、終始パンをつまみながら語っており、この場を取り持った院長からは、単に市長と会食するという名目で連れて来られたことがうかがえます。お見合いという状況をはっきりと認識している翔子が、「演歌!?意外ですね!」とちょっと大げさに驚いて見せますが、これに対して当麻は見事に無反応であり、女に媚びてこなかった彼の生き方を想像させます。実際、市長がお見合いという本来の目的を切り出しても、当麻はまったく空気を読みません。このシーン、というよりも物語全体を通じて大川市長は「俗物」を象徴する登場人物のひとりであり、当麻と市長の会話がまったく噛み合わないところに、当麻の「孤高ぶり」を見出すことができるわけです。

このシーンは当麻の人となりを表現する目的を帯びているにもかかわらず、当麻の顔寄りのショットはほとんど存在せず、彼に語りかけ、彼を見つめる他の3人の表情が当麻という人物を語っています。このシーンでは、堤真一さんはもちろんのこと、4人の登場人物がそれぞれ大変濃密なお芝居を見せてくれているわけですが、特に翔子を演じる中越典子ちゃんが当麻の言動に対して見せる表情のリアクションが素晴らしくて、彼女のメリハリのある、それでいて押し付けがましくないお芝居にはぜひ注目していただきたいところです。翔子が当麻にこれがお見合いであることを告げますが、「どなたとどなたが?」という当麻の台詞は、このシーンのまとめとしては秀逸であり、まさに「孤高」が意味するところの「俗世間から離れて」という部分をこのシーンのみでほとんど表現しきっていると思います。

さて、先にも触れたように、当麻の「孤高」の人となりに触れた中村浪子が、自らの仕事に対する考え方や生き方を変えていくところがこの物語のひとつの根幹をなしており、そのことを印象付ける描写もまた手術シーンに巧みに織り込まれていたと思います。私は浪子の心情の変化を印象付ける描写とは、「最初のメスを渡すまでと最後のクーパーを渡した後」に集約されていると考えています。

医療従事者のリアルな存在感によって手術シーンにリアリティが付与されているということはすでに述べましたが、ビジュアル的には術前の準備の様子が盛り込まれているところに私は新鮮さを感じました。当麻の手による最初の手術シーンでは、浪子が器具類を準備する様子が広い絵で捉えられており、浪子が当麻に手術ガウンを手渡す様子も描写されます。当麻がガウンを着る様子は、その後の手術シーンでも何度となく描写されるルーティーンワークであり、手術そのものよりもまずは術前準備をする医師と看護師たちを見ることによって、その後の手術シーンに説得力をもたらしていると思います。

一方で、この最初の手術シーンにおける浪子の心情としては、彼女自身が「今日はツいてない」と述べているとおり、当麻への怪訝さで満ちており、準備をする動きにもまた「いつものように手術をするだけ」という消極さが読み取れます。そして、そのような消極さが、浪子が当麻に最初のメスを手渡すときに発した「はい」という台詞で端的に表現されているということにはすでに言及しました。そして、このときの浪子の心情が最終的にどのような性質のものに変化していったのかが表現されているのが、終盤の肝移植手術で、浪子が当麻に最後のクーパーを渡した後だったと思います。最後の手術が終了した後も、その片付けをする医師と看護師たちが広い絵で描写されています。

「あんなにオペが嫌いだった私が、こんな大手術のスタッフになれた。私は夢の中にいるようだった」

浪子が感じた自らの仕事に対するこの充実感は、当麻に出会う以前は絶対にありえなかった、想像もできなかった性質の感慨であり、浪子の仕事及び人生においてひとつの到達点となるものです。 しかし、浪子は同時にこれが当麻に渡す最後のクーパーだったことに思いを巡らせます。

「ありがとう。見事だったよ」

当麻がガウンを脱ぎながら、こともなげにこの言葉を言うところは彼らしいところで、これまで描写されてきた彼の人となりを思えば、こんなに重みのある褒め言葉はなく、実際、浪子は自分の仕事の到達点をこの当麻の言葉をもって実感するのです。このとき、浪子はまだ口にマスクを当てており、夏川結衣さんはほとんど目のお芝居のみで、当麻の褒め言葉に対する浪子の複雑な心情を見事に表現しています。絵的には術後ということもあるし、マスクを外した状態でこの表情を押さえてもおかしくはないところですが、あえて目のみで表現しようとしているところに、監督の女優さんに対する信頼が垣間見えます。

当麻が病院を去る日、当麻が乗った車を見送りながら、浪子は大事なことを忘れていることに気が付きます。当麻への感謝の言葉・・・。当麻と出会い、当麻と仕事をすることで生まれ、成長してきたその思いは、浪子が今まで言葉として発したことがなかったものです。

「私、本当は都はるみが好きなんです、好きになったんです!」

感謝の気持ちとともに発せられたこの言葉は、浪子が当麻と出会うことで変化した価値観をもっともわかりやすく表現していて、当麻ともっと一緒に仕事をしていたかったという彼女の素直な気持ちが込もった素晴らしい台詞だと思います。

「君は、素晴らしいナースでした」

浪子が日記に書き残していたのは、その後の浪子が、この当麻からもらった最後の言葉を拠り所として仕事に向き合い、息子を育ててきたということです。冒頭で中村弘平(成宮寛貴)が母の人生を振り返ったとき、貧乏くじを引かされていたと表現しましたが、日記を読み終わる頃には母が自分の仕事に誇りと志をもって、その生き方に信念をもって自分を育ててくれたということを彼は初めて知るのです。ここで言う浪子の人生における信念もまた「孤高」という言葉で表現できると思えるところが、本作のテーマ表現が優れているところだと思います。当麻の「孤高の信念」が浪子の生き方に影響を与え、今度は息子につながっていく。ひとりの医師の信念がみんなをつなげている。素晴らしいまとめだと思います。

このレビューでは手術シーンを中心に本作のテーマ表現を掘り下げて見ましたが、もちろん手術シーン以外のところでも巧みなテーマ表現が随所でなされていて、最初のメスを渡すまでと最後のクーパーを渡した後の中間に存在する浪子の心情描写も大変奥が深いものがあります。本作は一つ一つのシーンに作り手の明確な意図が存在していて、それぞれのシーンを丹念に掘り下げる作業はとても楽しいと思います。噛めば噛むほど味が出る、繰り返しの鑑賞に堪える高いクオリティ有している作品であり、「孤高」というキーワードを念頭に置いて鑑賞すると、本作が試みているテーマ表現の手法がきわめてレベルの高いものであることがよくわかるはずです。

総合評価 ★★★★★
 物語 ★★★★★
 配役 ★★★★★
 演出 ★★★★★
 映像 ★★★★★
 音楽 ★★★★

(参考リンク)
「成島出監督~映画への熱い思い~」
http://www.toei.co.jp/meister/vol11/detail/01.html


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