So-net無料ブログ作成

真夏のオリオン [映画レビュー]

真夏のオリオン [DVD]

[ DVD ]
真夏のオリオン
( VAP,INC(VAP)(D) / ASIN:B002TJBBMQ )

[ Blu-ray ]
真夏のオリオン
( VAP,INC(VAP)(D) / ASIN:B002TJBBN0 )

『真夏のオリオン』
(2009年 東宝 119分)
監督:篠原哲雄 脚本:長谷川康夫、飯田健三郎 出演:玉木宏、北川景子、堂珍嘉邦
          Official Wikipedia / Kinenote          

2010042901.jpg
(C)2009 「真夏のオリオン」パートナーズ 

この作品をどのようなジャンルに位置づければいいのか難しいところですが、ひとつ言えることは本作が「反戦」を訴えるような性質の戦争映画ではないということです。こんなに戦争を「きれいに」描写しておいて、「戦争は悪だ」という主張が込められているわけはないし、ストーリー上の戦争が個別の戦闘の描写に終始しているところからも、本作は、反戦という大きなテーマとは無縁の作品であると言っていいと思います。そうかと言って、エンタテインメントという観点でいえば一級の素材である潜水艦に着目していながら、娯楽作品にも徹することができていない点が本作を凡庸なものにしてしまっています。

公式サイトのイントロダクションには、本作が製作される端緒の作品として『眼下の敵』が挙げられていましたが、作品を観てしまえば、まったくジャンルを異にする作品になってしまっているのは明らかだと思います。『眼下の敵』は、敵対する潜水艦と駆逐艦の心理戦を含む攻防と、戦闘を通して描かれる両艦長の人間ドラマが織り込まれた稀代の娯楽作品といえると思います。それに対して本作は、人間ドラマの部分を「陸(おか)」での恋愛物語と友情物語に求めていて、しかも、それが現代に繋がっており、外向きのベクトルが大きく突出してしまったという意味で、本作のストーリーはきわめて散漫なものになっていると言えます。

私は、その著書にマニアックなミリタリー要素を多分に盛り込んでいる福井晴敏氏が監修と聞いて、人間ドラマよりも戦闘描写に期待をして本作に臨みました。しかし、観終わってから知ったのですが、福井晴敏氏が主に監修したのはなんと「人間ドラマ」の方で、「船乗りに吉兆をもたらす真夏の空に輝くオリオン座」という要素は、福井氏の着想だそうです。その着想そのものは、並の脚本家では考えつかないものだと思うし、大衆向けの娯楽小説を生み出し続けている売れっ子作家ならではのものだと思います。しかし、その要素が大きく膨らみすぎて、現代にまで及んでしまっては、それはもはや『眼下の敵』のように「戦争」を題材とした娯楽作品であることを否定したも同然であり、本作の作品としての位置付けをますます混乱させてしまいます。

というわけで、本作は、「閉鎖的な潜水艦」という、映画作品として調理するには一級の素材を扱っていながら、作品の大部分を選りによって「開放的な陸(おか)」との関係で作り上げてしまっており、その意味では素材を生かしきれなかった駄作と言ってしまってもいいものと思われます。そう言い切ってしまうと、私が期待していたと申し上げた潜水艦と駆逐艦が繰り広げる戦闘描写のパートについては、もはや批評する価値すらないのかもしれませんが、公式サイトには時代考証や潜水艦の描写への「こだわり」も示されており、その点について何か言わずにいられない自分がいることも否定できないところです。

まず、時代描写に「こだわっている」というポリシーが本作に存在していることは間違いないとは思いますが、同時に製作者の「時代」に対する都合のいい解釈が見え隠れしている点が、私には好感が持てませんでした。たとえば、潜水艦の艦長である主人公・倉本孝行(玉木宏)が部下に対して敬語(丁寧語)を使用していることについて、公式サイトでは、「潜水艦では乗員たちが家族のような雰囲気で、艦長に対しても比較的気楽に話せる関係だったようです。」との説明がなされていますが、それはあくまでも当時の潜水艦および海軍の内部事情に関する「客観的な考証」でしかありません。それにもかかわらず、本作では潜水艦の艦長が部下に対して敬語(丁寧語)を使っていたという客観的事実は、倉本艦長の個別の人格を作り上げるために利用されてしまっているような印象を持ちました。

本作の最大の欠点を一言で断じれば、すべての登場人物が現代的な価値観で作り上げられている点です。部下に敬語を使うような人物だから、戦時中の価値観を持ち合わせておらず、先進的な考え方を持っていた、というのは極めて短絡で都合のいい解釈です。時代考証に「こだわっている」というのであれば、登場人物にもそれ相応の時代感覚を持たせるのは当然のことだと思いますが、製作者は明らかにその点については目を瞑っています。これでは本作が時代考証にこだわっているという売り文句は、製作者の打算に基づいたもので、登場人物の人格を「現代的な価値観」で作り上げていることを観客に対して隠蔽する役割を果たしているとすら感じられてきます。

その点について私が最も違和感を感じ、本作の製作スタンスを象徴していると言えるのが、出撃に逸る回天搭乗員に対する倉本艦長の説得です。「俺たちは生きるために戦っているんだ」という台詞は、はっきり言ってこの種の映画では「禁句」とすら言っていいものと思われます。この台詞は、生きることに執着する現代的な価値観の象徴と言ってもよく、戦時中の価値観とは真っ向から対立するものであり、誰が最初に言わせたのか、「平和ボケ」した現代人が創作したものですただし、倉本艦長の人格が現代的な感覚に近いものだということを否定してしまうと、物語の魅力が半減するし、時代描写にこだわるあまり、倉本艦長を軍国主義の申し子のように描くというのも、娯楽志向の映画作品としてはそれこそ何を表現したいのかがわからなくなってしまいます。

私の感覚では「俺たちは生きるために戦っているんだ」などという安い台詞を言わせなくても、時代描写と両立させた上で倉本艦長の先進的な人格を表現する方法はあったように思われます。そのためには、最前線にいる実戦部隊の指揮官という職責を果たすための「建前」と、戦闘で犠牲者を出したくないという「本音」を描き分けることが重要となってきます。ここで言う「建前」とは、時代描写に通じるものだし、「本音」は主人公の人格を表現するものとなります。この大前提があれば、倉本艦長が指揮官として出撃命令を下さないという行為そのものが回天搭乗員の命を救う最善の方法となり、「俺たちは生きるために戦っているんだ」などという台詞を言わせなくても、回天搭乗員を納得させることができるとともに、時代描写と人物描写の両立が可能になります。本作では、あろうことか本音を「命令」として表出させてしまっており、人物描写のために都合よく時代描写を切り捨ててしまっていると言えます。

本作は、娯楽作品というよりも、人間ドラマを主題とした作品と位置づければ、一定の評価はしてもいいものと思われますが、表現方法だけを意地悪な視点で評価すれば「大人の戦争ごっこ」によって作られた映画であり、その意味では角川春樹氏が私財まで投じて「壮大な戦争ごっこ」を映画化してしまった『YAMATO 男たちの大和』(2005年 東映)と同列の作品とも言えるかもしれません。

総合評価 ★★☆☆☆
 物語 ★★☆☆☆
 配役 ★★★☆☆
 演出 ☆☆☆☆
 映像 ★★★☆☆
 音楽 ★★★☆☆

映像については、一部に模型を使用したいわゆる「特撮」が使用されている点を評価したい。近年ではCGに取って代わられている特撮だが、日本が世界に誇れる映像技術である。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(3) 
共通テーマ:映画

(上)素直になれなくて [ドラマレビュー]

2010042201.jpg

『素直になれなくて』
(2010年 フジテレビ 全11回)
演出:光野道夫 ほか 脚本:北川悦吏子 主演:瑛太、上野樹里
          Official / Wikipedia / TV Drama DB            

北川悦吏子さん、久々の連ドラ脚本ということでとても楽しみにしておりました。
期待値が大きいという前提で、第1話の感想を述べると、「北川的」ストーリー展開のセオリーは健在でしたが、
セオリーに嵌(は)めていきたいがためなのか、ちょっと強引な展開がしばしば見られました。

たとえば、主人公二人が出会う喫茶店のシーンですが、コーヒーをこぼしてしまったハル(上野樹里)に対して
ナカジ(瑛太)が痴漢呼ばわりするというのは、ちょっとおかしいですよね。
これは、「出会いは最悪・・・でも実はいい奴だった」という北川脚本の最も基本的なセオリーを狙ったものと思われます。

また、二人の家が近いというのはドラマ制作上の許容しなければならない設定ではありますが、
オフ会の後にいきなりハルがナカジの部屋を訪れるというのはちょっと性急な印象を持ちました。
しかも、そうなってしまう過程が「汚してしまったズボンをクリーニングするしないで口論しているときに
ハルが転んでひざを擦りむいてナカジがおんぶして自分の部屋に連れて行く」というものであり、
とてもじゃないですが、ベテランの脚本家が書くような話の進め方とは思えません。

私は、中盤までの性急で強引なストーリー展開については、北川脚本らしからぬ稚拙さすら感じてしまいました。
二人の出会いにはもう少しオリジナリティのある劇的なアイデアを盛り込んで欲しかったところです。
考えるのが面倒になっちゃったんでしょうか?

その一方で、「北川節」は健在でした。第1話で私が「しびれた」台詞を二つ紹介します。
ナカジがハルの携帯待ち受けの写真を見て、
その写真がツイッターでハルに励ましてもらった直後に撮ったものであることを明らかにします。
そして、ナカジの台詞:

「だからその写真は、ハルのガンバレ、でできてんの」

並の脚本家では書けない台詞だと思います。
これは、それまでの多少強引な展開を相殺してしまうような力強さを秘めた台詞であり、
二人の距離が一気に縮まったことを印象付けるには、大変な説得力を持った台詞であると言えます。

もうひとつは、新しいズボンを手渡すために再びハルとナカジが喫茶店で会うシーンです。
まず、ナカジがハルに痴漢呼ばわりをしたことを謝罪した後に、コーヒーに砂糖とミルクを入れるか、
という何気ない会話を盛り込むことによって、二人の間の壁が取り払われたことを表現するあたりは流石だと思いました。
そして、
その直後に二人は再び険悪なムードになり、ハルが席を立ちますが、ナカジがハルを引き止めて:

ナカジ
ハル

「そのサヨナラは永久なの?」
「半・・・永久的に・・・」

「永久」という単語は日常会話としてはちょっと硬くて大げさな印象がありますが、
二人にとってはこの単語を使うに値する状況だったし、「二人のこれから」を我々に強く意識させるような表現だと思います。
そして、その「永久」という単語に「半」を接いだところに、ハルの複雑で微妙な心理を見事に含ませています。

終盤には、駅のホームで線路を挟んで会話するといういわゆる「北川シチュエーション」が登場して、
「キターッ!コレッ!」と思ってしまいました(^^;。
ナカジがハルに缶コーヒーを投げて、その缶に「ガンバレ!」というキーワードが書かれているあたりにも
北川脚本らしさを感じました。

さて、すでに様々なメディアで取り上げられていますが、
私もこのドラマの製作者は「ツイッター(twitter)」というものを誤認しているような気がしました。
どうみても、チャットや掲示板との差別化がなされておらず、
登場人物が出会うツールが「ツイッター」でなければならない必然性が感じられません。

終盤にドクター(ジェジュン)が飲みに誘うのにツイッターを使用しますが、
すでに出会っている者同士ならば携帯メールでもいいわけで、
第1話にして、ドラマツールとしてのツイッターはその役割を終えているとも言えます。

そういう根本的な欠陥を抱えてこのドラマはどこに進んでいくのでしょうか?
時代を象徴する新しいものに着目して、すかさずドラマに盛り込んでいく姿勢はフジテレビらしいものですが、
今後「ツイッター」というツールをどのように生かしていくのでしょうか。見届けさせていただきます。

関連記事 :(下)素直になれなくて(2010-06-25)
ハルフウェイ(2009-11-21)


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

花のあと [映画レビュー]

2010040301.jpg

『 花のあと 』
( 2010年 東映 107分 )
監督:中西健二 脚本:長谷川康夫、飯田健三郎 主演:北川景子
          Official Wikipedia / Kinenote          

公開中の作品をこのブログで取り上げるのは本作が初めてとなります。このブログでは、できるだけ作品のテーマ性を正確に把握した上でレビューを書きたいという想いから、劇場で見たものについてもDVDが発売、レンタルされてから作品を再度鑑賞した上でレビューを書くことにしていますが、本作については著名な原作があって、私も事前に何度も読んだ作品なので、そのテーマについては正確に理解しているつもりでおります。したがって、今回は早速、原作が有するテーマおよび世界観についての本作における表現手法という視点を中心に作品をレビューしてみたいと思います。

単刀直入に申し上げれば、本作は歴代の藤沢作品の映像化では最低の出来であると言わざるをえません。脚本はすでに『山桜』で藤沢周平作品の世界観を忠実に表現しているお二人ですので、本作の出来は中西健二監督の藤沢作品についての理解不足、ひいては時代劇という分野についての無知と経験不足によるものであることは明白であり、今回は主に演出面を酷評させていただきます。

まず、藤沢作品についての理解不足と書きましたが、そのことを象徴する演出をひとつ紹介します。藤沢作品のうち特に「海坂もの」と呼ばれるジャンルの小説においては東北地方の自然描写が克明になされており、映像化にあっても、海坂藩が存在したとされる山形県の庄内地方の風景を盛り込むことが定番となっています。本作でも主に場面転換などでそのような実景ショットが頻繁に挿入されておりましたが、私は、それらからは今ひとつ「海坂藩」を感じることはできませんでした。その理由は、本作における自然描写が、ただ単に「東北地方の美しい風景」という意味合いでしか存在していないからだと思います。

原作における海坂藩の自然描写とは、そこに生きる人々の営みを含んだものであり、映像化に当たって留意すべきは、「自然=農村の背景」という考え方だと思います。したがって、本作における山河の自然描写というものは、たとえば『劒岳 点の記』におけるそれとは性質を異にするものでなければならないのです。過去の藤沢作品の映像化を振り返ったとき、そのような考え方は実景ショットはもちろんストーリーにも当たり前のように盛り込まれており、同じ山並みを撮るにしても、それらを田畑の背景として描写することが重視されていたような気がします。

また、本作の原作には、農村の描写というものはほぼ存在しませんが、本作と同様に長谷川、飯田両氏が脚本を担当した『山桜』の原作にあっても超短編ということもあって、農村の描写は希薄でした。それにもかかわらず、映画のストーリーには執政の腐敗が農村の疲弊を生み出しているというエピソードが新たに付け加えられ、物語に奥行きを出すことに成功しており、農村というエッセンスは「海坂もの」の根幹を成す描写と言っても過言ではないだけに、このことは脚本のお二人が藤沢周平の作品世界を十二分に理解していることの証左だと思っています。そして、そのことを汲んだかのように『山桜』の篠原哲雄監督は、農村の描写を重視しており、象徴的だったのは山並みを背景として大名行列を田畑と同じ画面に入れて表現したラストカットだったと思います。

さて、そのような視点で本作における自然描写を振り返ると、農村の描写をストーリーに盛り込むことは困難だったかもしれませんが、少なくとも映像的な風景描写だけを取り出せば、中西監督の実景ショットの選択基準が単に「美しい風景」に基づくものに過ぎず、そこに藤沢周平作品の世界観を盛り込むという考え方は皆無だったと言い切ってしまっていいと思われます。美しい山並み、美しい川の流れ、美しい四季・・・、自然描写のすべてはおそらく監督の美的センスに基づくものに過ぎず、それらが作品の世界観を表現するためではなく、監督の自己満足のために使用されてしまったことは大変残念なことです。

そして、そのこととも関連してくるのかもしれませんが、冒頭の花見のシーンでもきわめて短絡(と思われるよう)な桜の描写が繰り広げられています。本作における「桜」は、当時の武家の女性の生き方を託した存在であり、『花のあと』というタイトルの「花」とは「青春」と置き換えられるものです。武家の女性にとっての青春とは、桜と同様に盛りが短いものであり、「花のあと」にこそ本当の意味での武家の女性としての人生が始まるということを暗喩しています。主人公の以登(北川景子)が冒頭の花見のシーンで、そのことを知ってか知らずか、満開の桜を見ながら「惜しいこと・・・」とつぶやきますが、この台詞には桜の盛りの短さを嘆く気持ちとともに、「武家の女性にとっての青春という時代の儚さ」という意味合いが込められています。実際、以登が江口孫四郎(宮尾俊太郎)との手合わせで胸を焦がし、その無念を晴らすまでというのは、桜の盛りのごとく青春が凝縮された時季であり、短く儚い青春時代と青春のあとに以登が許婚の片桐才助(甲本雅裕)と連れ添う日々との対比こそが本作のテーマだったと言えるでしょう。

したがって、この冒頭の花見のシーンは、以登と孫四郎の出会いの描写も重要ですが、それ以上に「桜」というものにいかに本作のテーマ性を付与できるかが監督にとっての重要な仕事だったと言えると思います。私は、それらのことを念頭にこの冒頭のシーンに臨みましたが、ありきたりな桜のカットが繋がれる中で、掘割の水面にせり出す桜の枝を捉えたほぼ同ポジと思われるカットが複数回にわたって登場したところに、何らかの監督の意図が込められていると受け取りました。ほとんど同じカットを1シーンに5回も挿入するという演出は映画では異例だと思いますが、このカットが2度目に登場したときに先ほども触れた以登の「惜しいこと・・・」という台詞がかぶせられていたので、監督がこの桜の枝のカットに何らかの特別な意味を付与したかったのは確実だと思われます。

しかし、まったく同じカットを複数回挿入したからと言って、当たり前ですがそのことをもってそこに何らかの意味が自然に発生するというものではないし、それだけで観客に何かを感じろと言うのは無理な話です。私は終盤にかけて、あのカットの意味を必死で汲み取ろうとしていたのですが、うまく解釈できぬまま、ラストの花見のシーンに突入すると、再び例のカットが登場するではありませんか。私の期待は否が応にも高まってしまいました。本作のテーマが念頭にあれば、その桜が「散る」と考えるのが普通であることは、ここまで読んでいただいた方にはご理解いただけると思います。しかし、このラストシーンでも2度にわたって例のカットが登場したにもかかわらず、結局単に「まったく」同じカットを繰り返して挿入したに過ぎなかったのです。

仮に、このラストシーンの2度目に登場した例のカットで、たとえば桜の枝に風が吹き抜けて花びらが掘割の水面に落ちるなどの「変化」が描写されていれば、それは紛れもなく以登にとっての青春との決別を表現したものと受け取ることができるし、こんなに秀逸なテーマ表現はないと思います。そして、冒頭でくどいほど同じカットを盛り込んだことがそのラストに大いに生かされてきたと思いますが、いかがでしょうか?先にも述べたように監督がこの桜の枝のカットに何らかの意味を込めたかったのは間違いないとは思いますが、そもそも原作のテーマ性への理解度が足りなかったがために表現の詰めを欠いてしまったことも同時に間違いないものと思われます。残念なことに「美しい桜」のカットは「美しい実景ショット」と同様に監督の自己満足で終わってしまいました。

申し訳ありませんが、酷評はまだまだ続きます。私は、中西健二監督の作品を見るのはこれが初めてですが、正直なところ、本作の冒頭5分で、中西監督の映画監督としての力量が凡庸であることに気がついてしまいました。そのことを象徴する演出が「台詞で切る」カット割です。台詞をしゃべる人にカメラを向けてそれを台詞ごとに繋いでいくという演出は、「稚拙」以外のなにものでもなく、台詞をしゃべっている人を撮っているに過ぎない演出は、少なくとも映画というジャンルの映像表現としては相応しくないと思います。

脚本に書いてある台詞というものは、独り言ではない限り、台詞をしゃべる人がいると同時に台詞を受け止める人がいるというのは当たり前のことであり、シーンによって差はありますが、個々の台詞は少なくとも両者にとって等価値以上のものでなければなりません。台詞をしゃべる人「だけ」を撮って繋いでいく演出というものは、もう一方を完全に切り捨てたものであり、その時点でこの監督は台詞についての解釈を怠っているか、軽視していると思われても仕方がないように思われます。中西監督の割本(わりぼん=カット割などの映像表現の方法を記入した台本)を想像すると、行ごとに縦線が入ったシンプルなものじゃないでしょうか。そんな紋きり型の映像表現で何かが伝えられるとは到底思えません。しかもそれらのほとんどが顔寄りのカットであり、画的にも工夫しようという気概がまったく感じられませんでした。

さらに、中西監督は、時代劇というジャンルの基本的表現の方法論に明るい方ではないのだと感じました。初めて時代劇を撮るからといって「型」にはめて映画を作れとはいいませんが、基本的な「型」を知らずして撮れるほど時代劇は甘くないというのも事実だと思います。その中でも殺陣と所作という時代劇の「型」の2本柱の表現について触れてみたいと思います。

殺陣については、北川景子ちゃんの頑張りもあって概ね好ましいものとして受け止めました。かといって本作を素晴らしい殺陣が盛り込まれた時代劇映画だったと評することはできませんが・・・。突っ込みを入れれば、脇差による腹部への一突きで即死するほど人間はやわではないし、本格的時代劇の表現としては、倒れてもがき苦しむ藤井勘解由(市川亀治郎)の首に短刀を当てるなどの「とどめ」の描写を盛り込んでもよかったと思います。あくまでも殺陣が「命のやり取りである」という視点は、山田洋次監督の3部作では一貫して盛り込まれていた部分です。

さて、所作については再び酷評に戻らざるをえません。山田洋次監督は、3部作の中で「襷掛け」という行為に武家の女性の所作の美しさを表現すると同時に、彼女たちの甲斐甲斐しさと夫に対する気遣いの深さを込めていますが、それは山田洋次監督の美学が感じられるひとつの見所となっています。

本作においても、おそらくそのような意味合いを込めたと思われる所作がありました。武家の女性が部屋に入るときの所作が登場するシーンは、私の記憶では、以登が合計3回、加世(伊藤歩)が合計2回あったと思います。そして、そのすべてで「障子を開けてから膝で部屋に入って障子を閉めて手を着いて頭を下げる」までの動作が一連して描写されていることから、監督の意図が所作そのものを見せることにあったというのは間違いないと思います。

しかし、時代劇初挑戦の女優さんたちにとってそのような何気ない時代劇の所作は、殺陣以上に難しかったと見えて、ひとつひとつの動きが繋がって初めて美しさが付与されるのが所作なのに、残念ながら所作の「流れ」というものがまったく表現できていませんでした。そのことは当然表現者の力不足に原因を求めなければならないところですが、「出来ていない所作」を複数回に渡って盛り込んだのは監督であり、私には信じられないことですが、監督はあの所作に美しさを見出すことができてしまう人なんだと思います。特に、序盤、以登が父・寺井甚左衛門(國村隼)に江口孫四郎との手合わせを懇願するシーンと、中盤、寺井甚左衛門が以登に脇差を手渡すシーンでは、ご丁寧にワンカットで20秒近くも無音でその動きを見せており、監督の美的センスを疑わざるをえない部分です。

また、クライマックスの殺陣が終わって片桐才助が以登を見送るシーンは、以登の後姿を捉えるカットで終わっていますが、北川景子ちゃんが摺り足ではなく、袴履きによるものなのか、普通に歩いてしまっています。細かいことを言うようで恐縮ですが、武家の女性の最も基本的な所作と言える「歩く」というお芝居に気を配れないところに、この監督の所作についての表現の甘さと細部への思慮の浅さを再確認してしまいました。そのあたりは監督の経験不足というよりも、時代劇というジャンルの研究度(鑑賞回数)が絶対的に不足していることによるもののような気がします。この方は黒澤明を観たことがあるんでしょうか。映画作りを生業としている人が黒澤作品を観ていないなどということはありえないことだとは思いますが、少なくとも時代劇が表現すべき本質を理解していないことは確かなような気がします。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

近年の日本映画界における時代劇は、『GOEMON』や『TAJOMARU』、『カムイ外伝』、『隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS』などの現代的な解釈に基づいたジャンルが確立されつつありますが、正統派時代劇を撮ることができる映画監督がいないから「新解釈」と称してそのようなジャンルに逃げているのかもしれません。本作は、若手監督には正統派時代劇は撮れないということを確認させられる作品であり、時代劇というジャンルの将来を慮(おもんぱか)らずにはいられません。日本映画界は、時代劇映画の巨匠、市川昆監督や山田洋次監督の後継者が存在していないことにもっと危機感を持たなければならないのかもしれません。

総合評価 ★★☆☆☆
 物語 ★★★★(片桐才助という人物像の解釈は、映画に相応しいものだったと思う。)
 配役 ★★☆☆☆
 演出 ☆☆☆☆
 映像 ☆☆☆☆
 音楽 ★★★★

(追記)本作における所作について、的確に分析している文章を見つけました。
http://d.hatena.ne.jp/clementia/20100405

関連記事 : 必死剣鳥刺し (2010-07-31)
山桜 (2009-09-27)


 参考:藤沢周平作品の映画化
   『たそがれ清兵衛』(2002年 松竹 山田洋次監督) ※「たそがれ清兵衛」「祝い人助八」「竹光始末」
   『隠し剣 鬼の爪』(2004年 松竹 山田洋次監督) ※「隠し剣鬼ノ爪」「雪明かり」
   『蝉しぐれ』(2005年 東宝 黒土三男監督)
   『武士の一分』(2006年 松竹 山田洋次監督) ※「盲目剣谺返し」
   『
山桜』(2008年 東京テアトル 篠原哲雄監督)
   『花のあと』(2010年 東映 中西健二監督)
   『必死剣鳥刺し』(2010年 東映 平山秀幸監督)


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(15) 
共通テーマ:映画