So-net無料ブログ作成

眉山 -びざん- [映画レビュー]

眉山-びざん- (2枚組) [DVD]

[ DVD ]
眉山-びざん- (2枚組)
( 東宝 / ASIN:B000UNAE6C )

『 眉山 -びざん- 』
( 2007年 東宝 120分 )
監督:犬童一心 脚本:山室有紀子 出演:松嶋菜々子、大沢たかお、宮本信子
          Official / Wikipedia / Kinejun          

2010013101.jpg
(C) 2007 「眉山」製作委員会

一般的には馴染みの薄い「献体」ですが、その意味を知ってしまえば、社会に必要不可欠なものであることがすぐに理解できると思います。ただし、自らが献体の当事者になるということについては、熟考を要することであり、本作のプロットを振り返るとき最も重要な要素は、主人公の母が「献体をする動機」だったと思います。その動機を語るにあたっては、主人公が母が辿った人生を知ることによって母が献体をする動機に行き着き、また逆に、母が献体をする動機を知ることで母の人生が何たるかに到達するという二重のロジックが見事に機能していたと言えます。人生の最後は献体という行為に至るところにひとりの女性の生き方が集約されているのであって、そのことが「幸福な人生」のあり方を問いかけるとともに、本作のストーリーに「美しさ」を付与しています。

本作のストーリーの根幹は、永遠の決別を前にした母娘の和解の過程を描くことであり、母娘の距離感の表現が重要になってきます。『イエスタデイズ』(2008年)でも同様のことに触れましたが、この種の表現で重要なのは、観客の立場を中立に置いておくことです。中立な立場で我々が想像する結末は製作者が意図するところであり、ある種予定調和的な結末が感動を呼ぶという基本的なセオリーを的確に押さえた作品だったと思います。

そのような観客の立場を決定付ける重要なシーンが序盤に登場します。母の病気を知って病院に駆けつけた咲子(松嶋菜々子)は、母・龍子(宮本信子)が看護師に説教しているところに出くわして、相変わらずの我の強さに呆れてしまいます。咲子はそんな母に釘を刺しますが、龍子がそれをはぐらかして、いきなりこの母娘の関係の複雑さが伝わってきます。そして、説教された看護師が医師の寺澤大介(大沢たかお)に愚痴をこぼすシーンにそのことが繋がってくると、それに対して感情を露わにするのは当然龍子の方だと誰しもが思いますが、真っ先に立ち上がったのが咲子だったところに、我々は龍子と咲子が紛れもなく母娘であることを感じ取ります。

このシーンのおかげで、我々はこの母娘関係の本質に気が付き、表面的には反目しあっていても二人が最終的に理解し合えないはずがないということを知ってしまいます。このシーンを深読みすれば、物語の着地点を暗示しているとも言え、これ以降観客はこのシーンを拠り所として、二人の母娘関係を見守ることになります。そして、我々が想像したとおりに物語が予定調和的な結末に収束することによって、セオリー通りに感動を生むのです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

犬童一心監督と言えば、『ジョゼと虎と魚たち』(2003年)がまずは思い出されますが、最新作『ゼロの焦点』(2009年)に代表されるいわゆる文芸作品を撮れる数少ない映画監督ということができると思います。その範疇にある本作においてもその手腕は遺憾なく発揮されており、まったく危なげのない演出で我々を作品世界に惹きこんでくれました。

ファーストカット本作の冒頭は近年の映画では珍しくアバンがない形式を採っていますが、いきなり登場するタイトルのカットが実に「美しい」仕上がりになっており、この直後のシーンで龍子が踊りながら流す美しい涙が持つ意味と「眉山」というタイトルの持つ意味が結び付く素晴らしいオープニングだったと思います。

本作を文芸作品と位置づけると、演出上はおのずと「余韻」のようなものを残すことが重要であり、それはすなわち観客の想像力を刺激するような表現を多用する演出ということになってくると思います。具体的に言えば、本作中実に巧みに使われているのがいわゆる「間接表現」であり、結論を観客の想像力に委ねる演出は、文学的かつ映画製作の伝統的手法ということができると思います。

最もわかりやすいシーンをひとつ挙げると、終盤、阿波踊りの演舞場で、龍子が寺沢に咲子の将来を託すシーンのラストカットは当事者二人を捉えるものではなく、二人の前列でそのやり取りを聞いて感極まる大谷容子(円城寺あや)と松山賢一(山田辰夫)のツーショットで終わっています。このラストカットは、この二人を「美しい契り」の証人として意味付けており、我々の涙を誘わずにはいない名シーンとなっています。このシーンに代表されるように本編中一貫して、ひとつのシーンを安易で直接的な顔寄りのカットで終えず、物寄りや実景カットで終わる間接的な演出が多く使用されており、そのことがもたらす「余韻」こそが本作演出の肝とも言うべきものになっています。

そんな余韻を表現するカットとして、本編全体にわたって多くの眉山の実景カットが挿入されていますが、これらの眉山を捉えるカットが持つ意味が物語を通して微妙に変化していくところが実に興味深いところです。眉山が最初に登場するのは、咲子が徳島空港から病院に向かう車中のシーンの直後ですが、松ちゃんの「眉山もさっちゃんをお出迎えじゃ」という台詞からも、そこには徳島を象徴する風景という意味合いしかありませんでした。しかし、物語が進展して龍子の生き方が明らかになるにつれて、次第に眉山に対して特別な意味が付与されていきます。終盤、龍子が「眉山があの人だと思って、おまえと二人ここで生きていこうってね・・・」と咲子に語るといよいよ眉山が持つ意味の核心が明らかになります。

ラストカットそして、本編のラストが眉山を捉える実景カットで終わっていることも至極当然のことであり、そこに出演者クレジットを重ねる演出は、オープニングタイトルとも繋がる「美しさ」を感じさせ、究極の余韻を残す演出となっています。これらの眉山の実景をもって我々の想像力を刺激する「余韻」は、活字媒体である原作小説では表現しきれない部分であり、映画ならではの特性を生かしきった見事な演出だったと言えます。

総合評価 ★★★★★
 物語 ★★★★★
 配役 ★★★★★

 演出 ★★★★★
 映像 ★★★★★
 音楽 ★★★★★


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

Dear Friends [映画レビュー]

Dear Friends ディア フレンズ [DVD]

[ DVD ]
Dear Friends ディア フレンズ
( 東映 / ASIN:B000O76YY0 )

『Dear Friends』
(2007年 東映 115分)
監督:両沢和幸 脚本:両沢和幸、三浦有為子 主演:北川景子、本仮屋ユイカ
          Official / Wikipedia / Kinejun          

2010012301.jpg
(C) 2007 「Dear Friends」製作委員会

両沢和幸監督といえば、『ナースのお仕事』シリーズに代表される働く女性たちを主人公に据えた奮闘劇とドタバタコメディの印象が強くありましたが、いわゆる「難病モノ」の範疇となる本作のようなシリアスなテーマは、監督のそれまでのキャリアと即座に結びつくものではありませんでした。プロデューサーとしての顔も持っている両沢監督が本作では「作り手」に専念していることからも、本作は良質の原作に着目した東映の持ち込み企画だったのかもしれません。ただし、私は本作の主人公二人が入院していた病院が「若葉会総合病院」だったところにニヤリとしてしまいました(^^;。 

参考:両沢和幸監督が手がけた主な作品
 <テレビドラマ>
『七人の女弁護士』(脚本 1991-1993年)
『その時、ハートは盗まれた』(脚本 1992年)
『お金がない!』(脚本 1994年)
『味いちもんめ』(脚本 1995年)
『白鳥麗子でございます!』(脚色 1995年)
『ナースのお仕事』(プロデュース 1996年)
『お仕事です!』(プロデュース・脚本 1998年)
『天使のお仕事』(プロデュース 1999年)
『黒川の手帖』(脚本 2005年)
 <映画>
『ナースのお仕事 ザ・ムービー』(監督・脚本・プロデュース 2002年 東宝)
『あたしンち』(脚本 2003年 東映)
『KEEP ON ROCKIN'』(監督・脚本・プロデュース 2003年 東映)
『BABY BABY BABY!』(監督・脚本 2009年 東映)

『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004年 東宝)の大ヒット以降、「病気」を取材した作品を各映画会社がこぞって発表して、食傷気味なのは否めないところだと思いますが、この種の映画は厳密には2種類に類型することができると思います。ひとつは「病気」そのものを中心にすえて、病魔に冒された人や彼らをサポートする人の闘病生活などを描いていく感動の物語で、もうひとつは病気を通して新しい価値観に到達するまでを描いていく人間の成長物語です。両者は、似て非なるものであり、私は病気を題材とした作品を見るときはそのことをはっきりと意識して臨むようにしています。

 「病気」が感動のために存在する作品:
 『愛と死をみつめて』(1964年 日活)
 『私の頭の中の消しゴム』(2004年 韓国)
 『1リットルの涙』(2005年 東映)
 『そのときは彼によろしく』(2006年 東宝)
 『Life 天国で君に逢えたら』(2007年 東宝)
 『余命1ヶ月の花嫁』 (2009年 東宝)
 「病気」を通して人間の成長を描いた作品:
 『生きる』(1952年 東宝)
 『解夏』(2004年 東宝)
 『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004年 東宝)
 『いま、会いにゆきます』(2004年 東宝)
 『タイヨウのうた』(2006年 松竹)
 『明日の記憶』(2008年 東映)
 
 ※『解夏』と『明日の記憶』は、両方の要素を兼ね備えており、その点が高い評価につながっていると考えられる。
※ちなみに『恋空』(2007年)は、そもそも単なる恋愛映画であり、「病気」という要素をもっとも安易に取り込んだ悪質な作品だと思う。
※あくまでも映画作品を評価したものであって、原作のあり方と必ずしも一致するものではない。また、分類は個人的な見解である。

前者には、「恋愛」という付加価値が付いている作品も多くありますが、それは「お涙頂戴」という製作者の目的を達成するために存在しているものであって、それをもって人間の成長を描いているとは言えません。それに対して後者は、人間の成長を描くために「病気」が存在しているのであって、「病気」という要素は映画製作上のテーマ表現のためのツールでしかありません。どちらの手法にも良作は存在しており、その手法をもって作品の優劣を評価するものではありませんが、「感動」を前面に出すか、「人間ドラマ」を前面に出すかには、大きな差異があることは間違いありません。

本作はそのタイトルからも「友情の意味」を問いかけるのが主たるテーマであり、後者に分類できると思います。ストーリー上は、リナ(北川景子)が病気を通してその生き方を180度転換していく「過程」こそが重要であり、その過程にマキ(本仮屋ユイカ)との「友情」が存在するところが本作の肝となっています。そして、本作の演出を語る上ではその過程に説得力を持たせることが重要であり、本レビューにおいてはリナの人物描写とその心情の変化を中心に主に演出面を掘り下げていくつもりでした。しかし、以下の「活字」で終わるラストカットを見て方針転換しました。

・・・・・・マキがついに力尽き
この世を去ったのは3ヵ月後だった・・・・・・
 

私は、このラストカットが現れるまでは本作の演出にはそれなりの好感を持っていましたが、正直なところこのラストカットを見てその気持ちは一気に冷めてしまいました。映画のラストカットが「活字」というのは、映画という表現メディアのアイデンティティを放棄したとも言える乱暴な手法とまで言ってしまいたいと思いますが、私はなんとなくここに監督の迷いと苦悩を見た気がします。

本作のテーマの捉え方は2種類あって、ひとつは「友情をもって病気と闘う」ということで、これは主にマキの視点となります。もうひとつは「病気と闘う中で友情の意味に気がつく」という捉え方で、これは言うまでもなくリナの視点となっています。微妙にニュアンスが異なることはお分かりいただけると思いますが、要は、「病気」を前に出すか、「友情」を前に出すかということになってきます。

私は、このラストカットを目にするまでは、かなりの比重を後者に置いて本作のテーマを捉えていましたが、このラストカットは明らかに病気「のみ」を前に出したものです。しかし、先にも述べたようにそのタイトルからも、本作はあくまでも「友情の意味」を問いかける作品であることは自明であり、監督もそのことは十分に理解していたはずです。それでもあのようなラストカットになってしまったのは、安易に「涙」を取りにいった結果かもしれません。

このカットは、リナのナレーションをかぶせている以上、活字は不要であり、黒味にフェードアウトしてエンドロールへ入っても全然違和感はなかったと思いますが、あえてそれを活字で表現してしまったところに監督の「涙が欲しい」という気持ちが表れているような気がします。仮にそうだとすれば、それはまったくの逆効果でした。本編が丹念に描いてきたリナが友情の真の意味に気がつくまでの過程が存在していれば、本作が前面に出すべき「友情」でまとめたとしても十分に涙を誘えたのではないでしょうか。推測ですが、監督は「友情」でまとめる方法にも当然、思考を巡らせたと思いますが、いい方法が思いつかなかったのかも知れません。

私は個人的にタイトルをラストにもう一度持ってくる演出が大好きで、『ラブファイト』(2007年 東映)でもそのことに触れていますが、本作のラストにはその演出がぴったりだったように思いますがいかがでしょうか。リナのナレーションの後に「Dear Friends」というタイトルがセンスよく登場したら、しっかり「友情」でまとまるし、マキの生と死がリナとの友情の中にあったものであることが伝わってきて、それこそ涙を落とさずにはいられなくなるかもしれません。こればかりは表現してみなければわからないことですが、タイトルに込められた意味を本編で的確に表現することに成功している本作においては、この演出はかなりの確率でその効果を発揮したのではないかと思っています。

総合評価 ★★★☆☆
 物語 ★★★☆☆
 配役 ★★★★

 演出 ★★★☆☆
 映像 ★★★☆☆
 音楽 ★★★☆☆

北川景子ちゃんが映画でこんなお芝居を披露していたとは、驚いてしまいました。今年公開の『花のあと』(春公開予定 東映 中西健二監督)がとても楽しみです。


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

(ご挨拶) [ご挨拶]

先日取り上げた『夕凪の街 桜の国』のレビューに佐々部清監督が目を留めてくださいました。

素晴らしい作品なのに、いまひとつアクセス数が増えないのを残念に思っておりましたが、
今日アクセス解析を見たところ、急激にアクセスが増えておりました。
どうやら佐々部監督がご自身のホームページで、「監督の意図を汲み取った」文章として
私のレビューへのリンクを張ってくださったようで、大変光栄なことだと思っております。

レビューが関係者の目に触れる可能性があることは承知していたものの、
監督ご自身に読んで頂けたことについては、驚きと同時に気恥ずかしさが先に立ってしまいました。
レビューを書く当たっては、作品のテーマと監督の意図を正確に読み取って紹介することを心がけていますが、
そのことを監督に認めていただいたことは映画レビューを書いていく上で大変励みになります。

私のレビューがより多くの方の目に触れるようになりましたことに大変感謝しております。
同時に『夕凪の街 桜の国』がもっと多くの方にご覧いただけるようになることを願って止みません。

佐々部清監督のホームページ
http://www.sasabe.net/home.html

リンクを張ってくださった「ほろ酔い日記」
http://www.sasabe.net/hidiary/hidiary.cgi?yyyy=2010&mm=01&dd=20

夕凪の街 桜の国 [DVD]

[ DVD ]
夕凪の街 桜の国
( 東北新社 / ASIN:B0012BLS02 )


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

夕凪の街 桜の国 [映画レビュー]

夕凪の街 桜の国 [DVD]

[ DVD ]
夕凪の街 桜の国

( 東北新社 / ASIN:B0012BLS02 )

『夕凪の街 桜の国』
(2007年 アートポート 118分)
監督:佐々部清 脚本:国井桂、佐々部清 主演:田中麗奈、麻生久美子

          Official / Wikipedia / Kinejun          

2010011301.jpg
(C) 2007「夕凪の街 桜の国」製作委員会

佐々部清監督は、『チルソクの夏』(2003年 プレノンアッシュ)でも触れた通り、的確な時代描写でそこに生きる人々の心情を浮き彫りにする手法を得意としており、本作の監督は適任だったと思います。特に昭和33年の広島を描く前半部分においては佐々部監督の手腕が遺憾なく発揮されており、一見平穏さを取り戻したように思える広島に残る戦争の傷跡を丁寧さをもって随所に織り込んでいます。

本作の演出上のスタンスは、冒頭に登場する皆実の会社での風景に代表されるように、当時の広島に生きる人々のある種前向きな明るさを前面に出して描かれており、その重くなりがちなテーマとのバランス感覚は見事なものだったと思います。それでいて、その直後に皆実が防火水槽に手を合わせるシーンを何気なく盛り込むことによって、広島の復興が戦争の傷跡を内包しながら進んでいったことを表現しています。爆風に晒されて一部が破損したお地蔵さんに手を合わせるシーンや銭湯のシーンなども、当時の広島の日常に溶け込んだものとして描かれており、そのことは現代に生きる我々にはある種のインパクトを持って受け止められるところだと思います。

とは言え、それらの演出も本作のストーリー構成も、こうの史代さんの原作がすでに持っていた表現手法をそのまま踏襲した部分がきわめて大きいと考えられます。今日は、本作の秀逸かつ巧妙なテーマ表現に絞って、作品を深く掘り下げて行きたいと思います。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

「夕凪」(ゆうなぎ)は、海風から陸風へ交換するときの無風状態のことで、四方を山に囲まれ、もともと風が弱い瀬戸内海では継続時間が長く、夏にはこれがはっきりと現れる。----引用元:Wikipedia

「夕凪の街」とは、紛れもなく広島のことであり、夕凪が終わって吹く風はさわやかな清涼感を生み出し、広島の夏の風物詩となっています。主人公のひとりである皆実(麻生久美子)が、前半最後のシーンで「何度夕凪が終わっても、この物語はまだ終わりません」と語って、後半の「桜の国」へとつながっていきますが、本作最大のテーマは、この過去と現在の「つなぎ」に集約されていたと言っても過言ではないと思います。

本作をあえて類型すれば、「反戦映画」ということになりますが、この種の映画の表現方法は大まかに2種類あります。たとえば、『プライベートライアン』や『プラトーン』のようないわゆる「戦争映画」と呼ばれるものは、戦争そのものの悲惨さを直接的に描写することでその目的を表現しています。そして、もうひとつのアプローチは、『7月4日に生まれて』や『火垂の墓』のように戦争によって受けた傷跡を背負って生きる人々を描くことで戦争の悲惨さを訴えるものです。両者に共通する点は、切り取る時間区分は違っても、どちらも「過去」であることに変わりわなく、それらの表現から「反戦」というテーマ性をどれだけ汲み取れるかは、究極的には現代に生きる我々の想像力に委ねられているとも言えます。

本作は後者のアプローチとなりますが、「過去と現代のつながり」をテーマとして表現した点がこの種の映画としては斬新であり、一見アンバランスとも思える2部構成は、我々が戦争について考える際の想像力を補填してくれているものとなっています。したがって、本作のタイトルは、日常的に美しい桜を愛でることができる現在の平和な日本(=桜の国)の礎(いしずえ)は、先の戦争で多大な犠牲を払った広島(=夕凪の街)にあるということを暗喩しており、そのことを理解してしまうと、そのメッセージ性は極めてインパクトのあるものになります。

過去から現在への「つなぎ」は、冒頭でも述べた前半と後半をつなぐナレーションの変換によって見事に表現されていましたが、皆実の姪である七波(田中麗奈)が主人公となる後半においては、逆に現在から過去への「つなぎ」が大きなテーマとなっています。それを表現する上で重要な役割を果たしていたのが、七波が抱える「桜」に対するトラウマだったと思います。

本作における桜は、平和な現代の日本の象徴ですが、七波のトラウマは、桜というものが母と祖母の死を連想させるものであることから始まっており、父(堺正章)を追いかけて広島へ行くまでは、それ以上の意味はありませんでした。しかし、広島でおばの存在とその意思を強く意識することによって、過去と現在が結びつくと、七波は自然と母と祖母の死の意味と向き合えるようになります。東京に帰る頃には、桜が咲く季節を想像できるまでに至りますが、広島で七波がそのトラウマを克服していく過程は、そのまま過去と現在を結び付けるエピソードとなっています。また、過去と現在の連続性を象徴するオブジェクトが「髪留め」だったことは言うまでもありません。

これらの秀逸なテーマ表現力は、原作が持っている魅力であることは間違いなく、広島の歴史を現在に伝えたいという原作者の熱意が感じられ、本作はその意思を適確に汲み取って表現した良作と言えるでしょう。下のYouTube動画を是非ご覧ください。私は本作を見た直後にこれを拝見して、涙をボロボロ落としてしまいました。

関連記事:三本木農業高校、馬術部(2010-06-19)
(ご挨拶)(2010-01-20)
チルソクの夏(2009-09-09)

総合評価 ★★★★★
 物語 ★★★★★
 配役 ★★★★★(麻生久美子さんのスクリーンでの存在感にはいつか触れなければと思っています。)
 演出 ★★★★★
 映像 ★★★★
 音楽 ★★★★


nice!(2)  コメント(7)  トラックバック(2) 
共通テーマ:映画

アマルフィ 女神の報酬 [映画レビュー]

『アマルフィ 女神の報酬』
(2009年 東宝 125分)
監督:西谷弘 脚本:真保裕一、西谷弘 主演:織田裕二
          Official / Wikipedia / Kinejun          

2010010801.jpg
(C) 2009 フジテレビジョン/東宝/電通/ポニーキャニオン/日本映画衛星放送/アイ・エヌ・ピー/FNS27社

本作は、フジテレビ開局50周年記念作品としてフジテレビドラマ班が総力を結集して製作した娯楽大作映画ということになります。本作の最大の特徴であるキャスティングありきの製作手法は、1990年代に活躍したフジテレビのドラマプロデューサー・大多亮氏(現・執行役員デジタルコンテンツ局長)がタレントと人気のある旬の俳優さんのスケジュールを確保するために生み出したものですが、それは視聴率が取れる良質の作品を作るためには当時最良の「手段」だったと言えるし、事実、視聴者の圧倒的な支持を受けた作品も数多くありました。

参考:大多亮氏が手がけた主なテレビドラマ  
  作品放送年主な出演者最高視聴率 
  『東京ラブストーリー』
『101回目のプロポーズ』
『愛という名のもとに』
『ひとつ屋根の下』
『素晴らしきかな人生』
『この世の果て』
『妹よ』
『僕らに愛を!』
『いつかまた逢える』
『プライド』
『ラストクリスマス』
1991年
1991年
1992年
1993年
1993年
1994年
1994年
1995年
1995年
2004年
2004年
織田裕二、鈴木保奈美、江口洋介
浅野温子、江口洋介
唐沢寿明、鈴木保奈美、江口洋介
江口洋介、福山雅治
織田裕二、浅野温子、佐藤浩市
鈴木保奈美、桜井幸子
唐沢寿明
江口洋介
福山雅治、桜井幸子、大塚寧々
佐藤浩市
織田裕二
、桜井幸子
32.3%
36.7%
32.6%
37.8%
25.0%
25.3%
30.7%
22.4%
22.9%
28.8%
25.3%
 
※ 主な出演者は、出演者のうち、特に関係の深い俳優さん。太字は本作出演者。
※ 他に大多氏がプロデュースした映画『ヒーローインタビュー』(鈴木保奈美主演)、『バースデイプレゼント』(和久井映美主演)なども
キャスティングありきで企画された。

大多亮氏が「企画」としてクレジットされている本作は、キャスティングに加えてロケーションありきで企画されるという、いわば大多亮氏あるいは亀山千広氏の「昔取った杵柄」で製作された映画ということができると思います。しかし、「フジテレビ開局50周年記念作品」という肩書きからもわかるように、「織田裕二主演で映画を作る」という企画そのものが半ば目的となってしまい、「おもしろい映画を作りたい」という製作者の熱意が伝わって来なかったのは残念でした。

本作が単発企画であることを承知で申し上げれば、『踊る大捜査線』シリーズの青島とまでは行かなくとも、続編を期待させるぐらいの魅力的な主人公を創作するような気概を見せて欲しかったです。主人公である外交官の黒田康作(織田裕二)は、ハリウッド映画で言うところの「ジャック・ライアン」のようなポジションのキャラクターであり、映画の主人公の職業設定としては申し分ないものでしたが、「仕事が出来過ぎる冷静沈着な男」という彼の人物設定に感情移入するのは困難であり、織田裕二さんのファンでない限り、もう一度見たいと思わせる魅力を欠いていたように思います。

2010010803.jpg織田裕二さんの本作におけるお芝居は、おそらく「娯楽大作映画の主人公」を意識したもので、終始力が入りっぱなしであり、キャラクターそのものに遊びがないことも手伝って、主人公の人間的魅力が表現されることはありませんでした。たとえば、黒田というキャラクター独特の口癖だったり、あるいは気の利いたジョークのひとつでも随所に盛り込むべきでした。その他の登場人物もほとんどが薄っぺらなキャラクターであり、私がそのキャラクターに辛うじて魅力を感じたのは、戸田恵梨香ちゃん演じる研修生の安達香苗ぐらいのものでした。

また、織田裕二さんの「力が入ったお芝居」と書きましたが、ハリウッド的な豪快なヒーロー像という表現では、一定の評価を与えてもいいものと思います。しかし、織田さんがイタリアという舞台に負けないお芝居を披露しているにもかかわらず、外国人俳優がやたらとこじんまりとしたお芝居をしていたことに私は違和感を感じてしまいました。外国が舞台で、外国人の登場人物が多いという意味では、シーンによっては洋画を観るような感覚があるかと思いましたが、日本人的な感覚を外国人にも当てはめてしまっており、ハリウッド的で豪快な織田さんのお芝居と、日本的でこじんまりとした外国人のお芝居という逆転の対比ができてしまっていたのは皮肉なことでした。

具体的に言えば、本作に登場する外国人は、稲川素子事務所(クレジットはなかったが)所属の俳優を髣髴とさせ、ある程度日本人の感性を理解しているような俳優さんたちだったような印象を覚えました。つまり、製作者は、イタリアという舞台の臨場感を表現できる外国人俳優よりも、より扱いやすい外国人俳優をキャスティングすることを選択したという想像ができます。メイキングで拝見しましたが、地元警察官を演じたロッコ・パパレオさんのアドリブ演技をことごとく否定していたのが象徴的です。製作者は、イタリアでのロケーションを過信し、それ以外の部分でのイタリアについての表現の工夫を怠ってしまったようです。

ストーリーについても、スケール感の尻つぼみは否めないところだと思います。その印象を決定付けたのは、事件の首謀者・藤井昌樹(佐藤浩市)の動機が明らかになったときです。亡き妻への愛とその仇討ちというのは、犯人への同情の余地を残すような、いかにも日本人的発想といったものであり、その動機はやはりこじんまりとしたものに収まってしまっています。ストーリーにそれなりのスケール感を表現するのであれば、犯人の動機はテロによる国家転覆とかあるいは壮大なイデオロギーの主張といったものでなければなりません。

そのような動機だけに、藤井という男は江上紗江子(天海祐希)との関係からもわかるように所詮は普通の優男であり、これだけの事件を起こした犯人のキャラクターとしてはまさに「役不足」だったと言えます。そして、藤井のそのような人物設定が仇となったのか、クライマックスシーンでは犯人たちが銃の発砲をためらうそぶりを見せ、挙句の果てに犯人同士で銃を向け合うという、犯罪者の狡猾さとはかけ離れた描写が連続していきます。私は、サラ・ブライトマンのコンサートシーンが始まると、本作の結末には漠然とケヴィン・コスナー主演の『ボディガード』のクライマックスシーンのようなアクションと臨場感のある演出を期待してしまいましたが、黒田の説得で決着というのはあまりにも拍子抜けです。

2010010802.jpgまた、本作のタイトルともなっているアマルフィでのロケーションは、世界遺産ということもあって本作の目玉ともいうべきものでしたが、アマルフィという街が登場する必然性が今ひとつ感じられませんでした。藤井がアマルフィという街の創生の伝説に触れて自分が凡人であることを語りますが、冷静に考えると「時間稼ぎ」というのは大した問題ではなく、ストーリー上はそれだけのためにアマルフィが登場したことになっています。しかも、数分間登場するアマルフィ市街地でのシーンは、登場するのが黒田と紗江子とイタリア人二人のみという、これまたこじんまりとした小規模編成であり、まったく緊迫感を表現できていなかったのは世界遺産でのロケには様々な制約があったことを想像させます。

本作最大のセールスポイントであったはずのイタリアロケは、やはりそれ自体が半ば目的になってしまっていたように思われます。本作は、ストーリー的にも演出的にもイタリアという舞台を生かしきれなかった「虚仮威し(こけおどし=実質はないのに見かけだけは立派に見えるもの)」の映画だったと言わざるを得ません。

総合評価 ★★☆☆☆
 物語 ☆☆☆☆
 配役 ★★★★
 演出 ☆☆☆☆(『容疑者Xの献身』を撮った人とは思えない・・・)
 映像 ★★★☆☆
 音楽 ★★★☆☆


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画