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おと な り (上) [映画レビュー]

おと・な・り [DVD]

おと・な・り【初回限定版】 [DVD][ DVD ]
おと・な・り
( ジェネオン・ユニバーサル / ASIN:B002M0FOD4 )

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おと・な・り【初回限定版】
( ジェネオン・ユニバーサル / ASIN:B002M0FODE )

『おと な  り』
(2009年 ジェイ・ストーム 119分)
監督:熊澤尚人 脚本:まなべゆきこ 主演:岡田准一、麻生久美子
          Official / Wikipedia / Kinejun          

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(C) 2009 J Storm Inc.

記事:おと な り (下) 

本作は、素晴らしい着想に基づいた脚本を極めて高いクオリティで映像化した恋愛映画です。『おと な  り』とは、なんと我々の想像力を刺激するタイトルでしょうか。「お隣り」「音鳴り」「大人成り」・・・と、ひとつの言葉に複数の意味を付与できるというのは、古来の和歌にも通じる日本人ならではの感性ということができるような気がします。「お隣り」と「音鳴り」については、落語家のなぞかけを連想させる単純な語呂合わせとも言えますが、物語の終盤に明らかになる「大人成り」という要素は、本作脚本の奥深さを際立たせており、映画作品としての面白さにも大きく貢献しています。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

恋愛映画において重要なのは、「二人の距離感」の表現だと思います。私は、この種の表現がもっとも巧みなクリエーターといえば、即座に漫画家のあだち充氏の名前を挙げるでしょう。わかりやすいところでは、『タッチ』における達也と南の「距離感」を象徴する存在は和也であり、作中一貫して二人は相思相愛であるにもかかわらず、和也への遠慮が二人から素直さを奪い、それが絶妙で切ない距離感を生み出しています。

本作における「二人の距離感」の象徴は、「お隣同士を隔てる部屋の壁」ということになりますが、お互いの生活音が聞こえるという二人を唯一結びつけている事実は「部屋の壁」なくしてはありえないわけで、二人を隔てるものに逆説的な二つの意味を持たせるという初期設定は素晴らしい着想だったと言えます。そして、そんな二人の距離が縮まっていく過程には、二人の挫折と人間的成長とが描写され、さらに終盤には劇的なサプライズも用意されており、映画としての基本的な要素を丁寧に盛り込んだ優秀な脚本だったと思います。

ナダで風景写真を撮りたい写真家とフランスでフラワーデザイナーの修行をしたいお花屋さんという一見接点のない主人公ふたりを結びつけるものは「お隣り」と「音鳴り」しかありません。その二人の関係を限定する要素を際立たせるにあたって重要なのが、部屋の外における主人公ふたりの将来に対するベクトルが外向きかつ交差する余地がないことであり、二人に関する人物描写も、それを意図したかのようにそれぞれ独立して展開されていきます。

カメラマンの聡(岡田准一)は、親友のシンゴ(池内博之)の失踪に始まるエピソードの中で、その人物像が明らかになっていきます。聡の部屋に押しかけてきたシンゴの恋人・茜(谷村美月)の性格は、クールな聡とは対極にあるものであり、聡の人となりを浮き彫りにする存在としては適格な人物設定だったと言えます。

茜の軽々しい言動は聡の気持ちを逆なでする性質のものでしかありませんでしたが、いつしか聡は、茜と自分との共通点を見出します。聡は、シンゴの存在をカナダに行かないことの言い訳にしていただけで、結局「自分に自信がないからどこにもいけない」ということに気がついてしまいます。そのことは茜が聡の部屋に居座る理由と結びつくものであり、正反対の性格と思われた茜の存在が聡にとって自己認識のきっかけだったというのは秀逸な物語の展開でした。

もっともそれ以前に直接的に聡の精神の核心を突いたのは、聡が所属する事務所のスタッフ・由加里(市川実日子)でした。由加里が聡の精神を見透かしたのは、この二人の間に仕事を超えた関係があったことを想像させるものであり、大変興味深いところです。終盤には由加里が聡の部屋を訪ねて、「となりの鼻歌お姉さん」について触れますが、やはり由加里が聡の部屋を訪れたのが初めてではないことが確認できます。二人の過去にははっきりと言及していませんが、それを匂わす言動を盛り込むことによって、聡の自己認識の過程に説得力を持たせています。

一方、フラワーデザイナーを目指す七緒(麻生久美子)の前に現れた氷室(岡田義徳)は、序盤においては穏やかな存在でしかなく、それだけでも七緒の人物像を明らかにするには十分でしたが、終盤に明らかになる事実は、七緒の精神の核心に触れるものであり、氷室の存在も七緒にとって自己認識のきっかけとなっています。

さて、このとき明らかになる氷室の正体は、ストーリー上意図された純粋なサプライズだったと言えますが、主人公ふたりが同級生だったという物語の方向性を決定付ける新事実は、これもサプライズであることに変わりはないものの、物語の肝となるべき重要な事実だけにそれなりの説得力を持たせる必要があります。ストーリー上は序盤に、七緒が口ずさむ「風をあつめて」について聡が「中学の時に学校で歌わされた」という発言をしており、「音鳴り」を象徴している鼻歌が二人の過去を繋げる重要な伏線ともなっています。

明日は、そのあたりの二人の過去を明らかにしていく過程について、演出面からアプローチしてみたいと思います。

(つづく)

記事:おと な り (下)


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誰も守ってくれない [映画レビュー]

誰も守ってくれない スタンダード・エディション [DVD]

誰も守ってくれない プレミアム・エディション<初回生産限定> [DVD][ DVD ]
誰も守ってくれない スタンダード・エディション

( ポニーキャニオン / ASIN:B002BT3WFI )

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誰も守ってくれない プレミアム・エディション<初回生産限定>
( ポニーキャニオン / ASIN:B001P3POWK )

『誰も守ってくれない』
(2009年 東宝 118分)
監督:君塚良一 脚本:君塚良一、鈴木智 出演:佐藤浩市、志田未来
          Official / Wikipedia / Kinejun          

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(C) 2009 フジテレビジョン / 日本映画衛星放送 / 東宝

『踊る大捜査線』シリーズで、テレビドラマの脚本家としての地位を確固たるものとした君塚良一監督ですが、そのキャリアはバラエティ番組の構成作家から始まっています。ドラマの脚本家としては、明石家さんまさん主演の『心はロンリー気持ちは「…」』に始まるコメディ路線の印象が強かったし、『踊る~』におけるその独特のコメディセンスも、君塚監督のキャリアと容易に結びつくものでした。ただ、『踊る~』が画期的だったのは、警察官をサラリーマンとして捉えた点であり、それまでの「刑事ドラマ」の既成概念をぶち壊し、新しいドラマの作り方を提示しました。

現在CSで放送中の『ニュース速報は流れた』(フジテレビCS事業部)も、その着目点は斬新であるとともに極めてピンポイントなものであり、「ニュース速報」という身近でありながら、誰もその「あり方」を掘り下げようなどとは考えなかったキーワードに目を向ける姿勢には、固定観念に囚われない自由な発想と想像力を垣間見ることができます。そして、そのストーリーは、極めてピンポイントなキーワードを綿密な取材に基づいて大きく膨らませていく手法に特徴があり、その結果多少誇張される要素があっても作品はドラマチックに発展していきます。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

本作においては、まず殺人事件の加害者の家族を題材にするという発想に驚かされます。現実社会において我々が接する犯罪というものはほとんどがマスコミというフィルターを通しており、被害者に同情する立場から語られることが多いと思います。そんな中、加害者の立場が語られた著作物といえば東野圭吾氏の『手紙』が思い出されますが、さらに一歩踏み込んで「加害者の家族も被害者である」という切り口には目から鱗が落ちます。このような視点は、『ニュース速報は~』同様、マスコミの一翼を担うテレビ業界の裏方で長く活動してきた君塚監督ならではのものであり、本作のテーマについてはかなりの時間をかけて咀嚼してきたことが窺え、それだけでも説得力は十分だと思います。 

モントリオール世界映画祭で最優秀脚本賞を受賞しただけあって、ストーリーは基本的なセオリーを押さえながら展開しており、物語そのものは劇的でありながら、脚本自体は巧妙かつ冷静な仕掛けで満ち溢れています。本作には脚本執筆の基本的なハウツーが多分に盛り込まれており、映画作りを志す人には格好の教科書となりうる作品と言えるかもしれません。

まず、序盤の逮捕劇以降、加害者家族が直面するエピソードの提示の仕方は、観客を作品の世界観に一気に引き込むスピード感があり、いい意味で観客を黙らせてしまう力強さがありました。マスコミが取り囲む加害者宅といういわば密室で繰り広げられるドラマは、我々の関心を引くのに十分だったし、特に裁判所による名字変更の手続きなどは驚嘆の目で見るしかありません。この一連の描写は、加害者家族につきまとう運命がきわめて悲観的なものであることを強烈に印象付け、とりわけ加害者の妹・船村沙織(志田未来)に課せられた過酷な運命を予感させるものであり、「つかみ」としては十分すぎるものでした。

また、沙織を警護する刑事・勝浦卓美(佐藤浩市)が抱えるトラウマは、それだけでも勝浦という人物を説明するには十分ですが、それに関係する過去の事件が終盤にかけて、被害者側の心情を語る要素として存在しているところも秀逸でした。そして、勝浦の人物像を語る上で見逃せないのが家族の存在であり、冒頭に勝浦が購入した娘へのプレゼントが持つ意味は実に興味深いところです。勝浦の車中に無造作に置かれたプレゼントの箱は、本編を通じて随所にインサートされますが、その度に我々は勝浦の家族を意識します。

この物語のもうひとつの側面は、勝浦が家族こそが自分が守るべき唯一無二の存在であるということを認識していく過程を描くことにあり、このプレゼントの箱が登場する度に勝浦の家族に対する認識が微妙に変化していきます。さらに沙織にとってはこのプレゼントの箱は幸福な家庭を連想させる嫌悪の対象でしかありません。しかし、勝浦が「誰も守ってくれないんだ」言い放った沙織に対してラストに語った結論というのは、家族を守れるのは家族しかいないというものであり、それは自分の家族を意識したものであることは間違いなく、プレゼントの箱の存在がその結論に見事に結実していたと言えます。

沙織は父と兄という残された家族を守るために強くあろうと前に進む決意をしますが、勝浦が車中に置き忘れていたプレゼントの箱を沙織が感謝の気持ちとともに勝浦に手渡すシーンは、紛れもなく自分が家族を守るという沙織の決意を象徴的に表現しています。私は物語に重要な影響を与える物を「キーオブジェクト」と呼ぶことにしていますが、この「プレゼントの箱」はその役割を見事にまっとうしていたと言えます。

また、キーワードという意味では本編を通して何度か登場する「背筋が凍るな、おい」というセリフには、重いテーマが語られる中でどこかホッとする響きがあります。これは、松田龍平さん演じる刑事・三島省吾の軽妙な人物設定とともに、作品全体のトーンにバランスを生み出しており、このあたりにも脚本執筆のテクニックを感じるところです。

さて、本作の脚本の最大のみどころは、物語に大きな起伏を生み出す「裏切り」にあると思いますが、残念ながらそれが本作の欠点ともなってしまっています。序盤は、犯人宅を取り囲む報道陣の騒然とした雰囲気や佐々木蔵之介さん演じる新聞記者の狡猾さが強調して描かれており、マスコミこそが犯罪加害者の家族を追い込んでいく存在であることを印象付けています。しかし、インターネット掲示板の情報が一人歩きし始めると、いつの間にか「ネット住人」が加害者家族を追い込む存在に取って代わっています。このネット住人の暴走は、盗撮や暴行といった違法行為にまで発展していきますが、さすがにこれについてはリアリティを欠いていると言わざるをえません。

ただ、冒頭にも述べたとおり、多少の表現のデフォルメは君塚脚本の特徴であり、それによって映画作品としてのエンタテインメント性が際立っていることも事実です。映画やドラマにおける「リアリティ」に対する考え方には個人差がありますが、映画においては「面白くない真実」を愚直に盛り込んでも無意味であり、重要なのはバランス感覚だと思います。私の感覚では、「ネット住人」が姿を現して違法行為に及んだのは少々やりすぎだと感じましたが、映画製作の手法としては許容すべきものだと思います。そのあたりの受け止め方は人それぞれだとは思いますが、いづれにしろそこには君塚監督の緻密な計算が存在していることも間違いありません。

そして、序盤にマスコミを代表するポジションとして登場した佐々木蔵之介さん演じる新聞記者が、最後にネット社会の暴走についての感慨をもらします。彼が表現した「自分がキープしていたはずのボールが坂道を転げ落ちた」という比喩には、多少逸脱したリアリティをカバーしてしまうほどの力強い主張が感じられ、作品のテーマ性を見事に表現し切ったものと言えます。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

最後に、映画初主演となった志田未来ちゃんの演技力と存在感には改めて敬服いたしました。本作における役柄は、突如として特殊な状況に巻き込まれていく普通の少女ですが、彼女を取り巻く環境の変化に対するリアクションにはかなりの想像力を要したと思います。特殊な環境に対するリアクションは「非日常」的なものですが、最終的に「普通の少女」に落とし込まなければならないという意味では、「普通」であることが演じることを難しくしている役柄だったとも言えます。15歳とは思えない「凄み」すら感じさせる演技は、女優としての末恐ろしいポテンシャルを意識させるものでした。

総合評価 ★★★★
 物語 ★★★
 配役 ★★★★
 演出 ★★★
 映像 ★★★★
 音楽 ★★★★


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群青 愛が沈んだ海の色 [映画レビュー]

群青 愛が沈んだ海の色 [DVD]

群青 愛が沈んだ海の色 プレミアムエディション [初回限定生産] [DVD][ DVD ]
群青 愛が沈んだ海の色

( バンダイビジュアル / ASIN:B002MAJTC6 )

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群青 愛が沈んだ海の色 プレミアムエディション [初回限定生産]
( バンダイビジュアル / ASIN:B002MBCHWE )

『群青 愛が沈んだ海の色』
(2009年 20世紀フォックス 119分)
監督:中川陽介 脚本:中川陽介、板倉真琴、渋谷悠 主演:長澤まさみ
          Official / Wikipedia / Kinejun          

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(C) 2009 「群青」製作委員会

映像的には沖縄の自然風土が美しく描かれているし、沖縄というのは監督の美的センスを満足させるには恰好の舞台だったに違いありません。しかし、それ以外の部分で本作の舞台が沖縄である必然性がもうひとつ感じられず、物語的にも演出的にも、「絵」としての沖縄に頼りすぎて、そこに生きる「人間」を浮き彫りにすることを軽視してしまっているように感じました。

本作の致命的な欠陥を言えば、登場人物が沖縄に溶け込んでいない点であり、主要な登場人物が標準語を話している時点で、その作業を放棄していると捉えられても仕方がないように思われます。ましてや都会的な風貌の長澤まさみちゃんをキャスティングしている以上、本編には沖縄独特の雰囲気を盛り込む工夫が不可欠でした。

たとえば、「方言」というのは地方を舞台とした映画において、作品の雰囲気を決定付ける重要な要素であり、本ブログで取り上げた作品を例に取れば、『天然コケッコー』(2007年)の石見弁や『海がきこえる』(1993年)の土佐弁、あるいは『ココニイルコト』(2001年)の関西弁などが作品の印象に大きく貢献していました。本作の脚本は、「主演・長澤まさみ」であて書きしたものだと聞きましたが、彼女のそれまでのイメージを先行させてしまったが故の「方言軽視」だったような気がします。

いくら沖縄らしい実景ショットを連発しても、その直後に登場する人物が都会っぽい言動を繰り返してしまっては、そのギャップだけが際立ってしまい、作品全体に違和感だけが残ってしまいます。『ちゅらさん』のような沖縄を舞台にしたドラマのおかげで、沖縄独特の言い回しは全国的にも認知されており、本作においても随所に「なんくるないさぁ」というセリフを期待させる場面がありましたが、それを「心配いらん」のように言われてしまっては、沖縄を舞台にしている意味が半減してしまいます。

また、沖縄独特の雰囲気を盛り込むという意味では、物語にも沖縄の風俗を何らかの形で盛り込むべきだったような気がします。私は、沖縄についての民俗学に明るいわけではないので、あくまでも一般的な感覚で、この点にアプローチしてみたいと思います。

たとえば、涼子(長澤まさみ)の父・龍二(佐々木蔵之介)が、病気で将来に絶望している由起子(田中美里)のために何日もかけて採った宝石サンゴをお守りとして手渡すシーンは、南の島ではいかにもと言えるエピソードですが、逆に言えば本土の人間でも容易に想像がつくようなエピソードであり、むしろ本土の人間が考えたような安っぽさすら感じさせます。「サンゴのお守り」がリアルに存在する風習なのかは不明ですが、いづれにしろこのエピソードにもいまひとつ「沖縄らしさ」を感じることはできませんでした。

さらに、主人公の幼馴染である大介(福士誠治)が、一也(良知真次)の死後、涼子のために島に戻ってきますが、島伝統の焼物(陶器)を再生させるために芸大に進学したことが明らかになります。土をこねることによって涼子が閉ざしていた心を微かに開いていくというくだりは、大介の物語における役割を鑑みれば、よくできたエピソードだったと思います。しかし、これについてもそんな焼物がリアルに存在するものなのかは曖昧であり、その焼物については大介のセリフで触れられるのみで、沖縄の伝統文化としての描写は希薄なものにとどまり、やはりここにも「沖縄らしさ」を感じることはできません。

そして、身近な人の死にどのように向き合うかという本作のテーマを表現するにあたっては、たとえば、『おくりびと』(2008年)における「石文」のような役割を果たす、人の死の意味を捉える沖縄独特の風習や死生観ようなものを盛り込むべきだったような気がします。

私は、劇中に何度か登場する沖縄地方独特の「仏壇」を見たときにその方向からのアプローチを期待しましたが、「お母さんはいつもおまえの近くにいるような気がする」という「死生観」とも言えないような極めて曖昧な表現しかなされませんでした。これではラストに楽譜を飛ばした風の意味が、まったく字面どおりの意味でしかなく、「千の風になって」の歌詞と繋がってくるような抽象的で安易なエピソードは、物語の結末に至る過程を安直なものにしてしまっています。

人物描写についても沖縄らしさは希薄でした。たとえば、一也の仏前に献花しにきた涼子と大介に対する一也の母(洞口依子)の冷めた応対というのは昼ドラの一場面を思わせる安っぽいものであり、都会的な発想に基づいているような気がします。息子の死から1年が経過しても、それを引きずるっているような素振りを表面に出していると言うのは、南国に生きる人々の気風とはそぐわないのではないでしょうか。また、涼子の父の寡黙な海人(うみんちゅ)という人物設定も物語的には不可欠な要素ではありますが、これも南国の大らかな気風からはかけ離れてしまっています。

結局本作は、「海」という沖縄の表面的な魅力に着目したにすぎず、「都会人の旅行プラン」のような発想で作られた映画であって、そこに生きる人々もエピソードも終始都会人の発想で作り上げられてしまっています。その意味では、一也が涼子に想いを伝える「島唄」も観光客向けの余興を連想させるものであり、取ってつけたような感覚はぬぐえません。

調べたところ、原作者も監督も東京出身の方でした。私は原作を読んでいないので、原作者の執筆姿勢について何かを言える立場にありませんが、少なくとも監督が沖縄の風俗やそこに生きる人々の気風についての丹念な取材を軽視してしまったことは確かなような気がします。極端に説明的要素を省いたセリフ回しは、「絵作り」ありきの脚本を感じさせ、物語と演出の間にアンバランス感があったことは否めません。

総合評価 ★★☆☆☆
 物語 ☆☆☆
 配役 ☆☆☆
 演出 ★★☆☆☆(カメラワークとかカット割は好きなテイストなんですけど如何せん・・・)
 映像 ★★★★
 音楽 ★★☆☆☆


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耳をすませば [映画レビュー]

耳をすませば [Blu-ray]

[ Blu-ray ]
耳をすませば
( スタジオジブリ  / ASIN:B004W0XO5C )

  • [DVD]
    耳をすませば

    ( ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント / ASIN:B00005R5J9 )

『耳をすませば』
(1995年 東宝 111分)
監督:近藤喜文 脚本:宮崎駿 出演:本名陽子、高橋一生、小林桂樹
          Official / Wikipedia / Kinejun           

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(C) 1995 柊あおい/集英社・二馬力・TNHG

本作における主人公の成長は、他者の目を通して自分が何たるかを認識する過程を描くことで表現されており、それは『幸福の食卓』(2006年 松竹)で触れた少女の成長劇の描写と類似しており、今思えば、かの作品は本作にインスパイアされた部分が少なからずあるような気がしています。本作の主人公である月島雫(本名陽子)にあっても、その魅力は他意のない純粋な無邪気さであり、序盤から中盤にかけては彼女の言動の中にそのイノセントな部分が遺憾なく表現されていきます。

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「あ~、ずいぶん低~い!今日はいいことありそう」

たとえば、序盤、雫が空を飛ぶ飛行船を見つけて、嬉しそうに「今日はいいことありそう」とつぶやくシーンがありますが、このあたりには些細な日常にも何らかの意味を付与できてしまう雫の感受性の豊かさが表現されています。中盤には天沢聖司(高橋一生)がそのような雫の無邪気さから発せられた言葉に対して「おまえな、よくそういう恥ずかしいこと平気で言えるよな」と突っ込みを入れますが、雫の言葉はまさにその種のものであり、他人に自分の言葉がどのように受け取られるのかを考慮した上での発言ではありません。「あら、いいじゃない、本当にそう思ったんだから」とは雫の返答です。

つまり、この種の雫の言葉というのは、自分が感じたことを率直に言葉にしたものでしかなく、言葉そのものが自己完結しているという意味では、雫の意識の中にはそれを受け止める「他者」が存在していません。それこそが雫の無邪気さの本質であり、彼女の魅力ともなっているわけですが、別の見方をすれば「世間知らず」と言うこともできます。そして、そんな自らの「世間知らず」を思い知らされる時が、唐突におとずれます。

同級生の杉村に告白される神社のシーンは、雫が自分に向けられた他者の目を初めて強く意識した瞬間を描いています。それと同時に雫は、物語の世界の話でしかなかった恋愛の舞台に彼女自身が立っていることを認識します。生まれて初めて意識した他者の目が恋愛感情だったというのは、雫にとっては衝撃的でしかなかったと思いますが、このことがなければ、雫はその後の聖司との関係においてその感情を能動的に処理することはできなかったはずです。本作中、杉村は雫の精神的な成長にとって最も重要な役割を果たしていたと言え、その意味では「杉村、ナイスアシスト!」としか言いようがありません。

杉村によって他者の存在を認識した雫が、自身の目下の懸案である進路について明確な答えを持っている聖司に惹かれていったのは、至極当然の成り行きだったと思います。これ以降、雫の行動は、常に自分以外の他者、とりわけ聖司という存在を意識したものに変わり、語が好きなだけだった少女は、物語を書くことによって自分の原石を磨く術を模索し始めるのです。

さて、ここからはそれら少女の成長劇についての描写を演出面から掘り下げてみたいと思います。本作のテーマは、モラトリアム期にある少女の精神的な成長を描写していくことにあります。本作における主人公の成長は、彼女を取り巻く環境の「変化」の中に織り込まれており、演出上は、何気ない季節の移ろいが重要な役割を果たしていたような気がします。

本作が切り取っているスパンは、月島雫が中学3年生のおよそ数ヶ月間です。物語は夏休みから始まりますが、夏の暑さから冬の寒々しさへの移ろいは、楽天的だった雫の中学校生活が、避けることができない進路という分岐点を迎えていくことを示唆しており、それとともに雫の気持ちは、夏休みの開放的な種類のものから、冬の空気感の中に孤独に存在するものへと変化していきます。

たとえば、雫の夏休みを描く序盤、図書館からの家路に就く雫に一陣の風が吹き抜けます。これはおそらく「野分」であり、暗に夏の終わりを表現しています。このシーンにおける曇天の背景と物寂しい音楽は、明らかにそれまでのトーンから一転しており、雫は物語が始まりそうだと予感した地球屋の発見から、中学3年生が向き合わなければならない現実へと一気に引き戻されていきます。

そして実際に次のシーンでは、新学期が始まっており、雫の通学シーンで降る雨は「現実感」を象徴的に表現しています。先にも触れた通り、杉村の告白は雫にとって重要な転機となりますが、その翌日の通学シーンでも雨が降っています。これはおそらく「秋雨」であり、杉村の告白によって新しい現実に直面した雫にとっては冷たい雨でしかありません。その後も雫がセーラー服の上に羽織るカーディガンや衣替えなどに季節感を見出すことができ、季節の移ろいは雫に対して容赦なく、自身の進路についての回答を迫っていきます。

また、杉村告白翌日の雨は、雫と聖司がお互いの気持ちを確かめ合う学校の屋上のシーンへとつながっており、雨が止んだとき、雫は聖司の正直な気持ちを知ることになります。このシーンは、雫の精神的な成長を天候の変化に託して表現しており、雫は聖司を通じて恋愛についても自分の将来についても漠然とした「手がかり」を手に入れます。

さらに、このシーンは、本作の演出を語る上で見逃せない重要なシーンとなっています。このシーンには、屋内から屋外、曇天から晴天という移り変わりの中で、光量の変化が意図的に盛り込まれているわけですが、雫の髪の色がそれにつれてはっきりと変化していきます。そして、雫の髪の色の変化はこのシーンで完結しておらず、本編を通して丹念に見てみると、そこに明確な演出上の意図を汲み取ることができます。

 物語が好きなだけの少女
2009121602.jpg
すでに恋をしている夕子との対比が興味深い。
学校の屋上のシーン
2009121603.jpg
雫の精神的な成長を明確に印象付けている。
ラストシーン
2009121604.jpg
物語を書き上げた直後からさらに明るくなる。

上に示したように、雫の髪の色は、彼女の精神的な成長とともに明るさを増しており、雫の精神の成長に影響を与える要所のシーンで、雫の髪の色は象徴的に変化していきます。先に述べた学校の屋上のシーンは最もわかりやすいと思いますが、本編を通じて最初にその変化が印象的に盛り込まれたのが、杉村が雫に告白した神社のシーンだったと思います。

このシーンも、夏の晴天の中、緑がまだ色濃い神社の境内には木漏れ日が差しており、光量の強弱が効果的に使用されています。杉村の突然の告白に戸惑う雫は、その場から走り去ろうとしますが、このとき雫に降りかかる木漏れ日は、雫の髪の色を断片的に明るく見せており、雫が成長の過渡期にあることを示唆します。実際にこのシーンを境に雫の髪の色ははっきりと明るさを増し、雫の精神は新しい局面に突入していきます。

終盤にかけては、雫が物語を書き上げた直後からさらに明るさを増していきますが、なんと言っても注目すべきはラストシーンです。このシーンも雫と聖司がいっしょに日の出を見るとあって、光量の強弱が重要な役割を果たしており、聖司のプロポーズの直後、朝日に照らされた雫の髪の色は、極限の明るさに達します。

今度本作をご覧になる方は、ぜひ雫の髪の色に注目して鑑賞していただきたいと思います。それはまさに原石が磨かれていく様を連想させるものであり、アニメーションならではの演出手法によって、本作のテーマを象徴的に表現することに成功しています。

総合評価 ★★★★★
 物語 ★★★★
 配役 ★★★★

 演出 
★★★★
 映像 
★★★★
 音楽 ★★★★★

本作の劇中音楽は、ジブリ作品の中では異彩を放っており、管楽器が前面に出たオーケストレーションは、物語の世界に没頭する雫のイノセントな部分と雫が創作した物語の世界観を的確に表現していきます。


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茄子 アンダルシアの夏 [映画レビュー]

茄子 アンダルシアの夏 [DVD]

茄子 アンダルシアの夏 コレクターズ・エディション [DVD][DVD]
茄子 アンダルシアの夏

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茄子 アンダルシアの夏 コレクターズ・エディション
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[Blu-ray]
茄子 アンダルシアの夏
( バップ / ASIN:B001O6W9W6  )


『茄子 アンダルシアの夏』
(2003年 アスミック・エース 47分)
監督・脚本:高坂希太郎 出演:大泉洋、筧利夫、小池栄子
          Official / Wikipedia / allcinema          

2009121001.jpg
(C) 2003 「茄子 アンダルシアの夏」製作委員会

本作は、日本人には馴染みの薄い自転車のロードレースを題材としており、劇場に足を運ぶにはそれなりの動機付けを要求し、残念ながら興行的には振るわなかったようです。ましてやスパニッシュの主人公をはじめ、登場人物がすべて外国人ということで、感情移入しづらいということもあったかもしれません。

まず、自転車のロードレースがいかなるものかを知らない人にとっては、主人公のペペ・ベネンヘリ(大泉洋)がチーム内で置かれている立場というものがわかりづらく、劇中のレース展開についていけなかった人も多いかもしれません。しかし、ペペのチーム内での立場や役割がレース中に劇的に変化していくところが、本作のストーリーに起伏を生み出していると同時にペペの人物像を浮き彫りにする役割を果たしており、その点を理解できればもっと本作を楽しめると思います。

本作の舞台は、三大自転車ロードレースのひとつ「ブエルタ・ア・エスパーニャ」です。およそ1ヶ月をかけて、スペインを一周してその総合タイムを争うレースですが、1日あたり200km前後のコースは「ステージ」と呼ばれ、チームにとってのもうひとつの目標が、20ほどある個々のステージで優勝を狙うことにあります。1チームは9人で編成されており、チームのエースを勝たせるためにその他の8人がアシスト役となります。

ぺぺが所属するチーム・パオパオビールは、チーム内無線のやり取りでもわかるように、総合優勝争いに絡むどころかステージも勝てておらず、山岳ステージを前に有力チームが静観しているこの日は、チームにとってステージ優勝を狙える状況にあります。また、スポンサーが見学に来ていることもあり、いづれにしろチームとして何らかの見せ場を作る必要があります。

そこで監督が白羽の矢を立てたのが、この日調子がよかったペペでした。と言ってもあくまでもペペはアシストであり、チームのエースであるギルモアとともに集団から飛び出して、ギルモアがステージ優勝するための「捨て駒」になるのです。このときペペは、スポンサーとのやり取りの中で、自身にクビの可能性があることを知ってしまい、落胆しながらも、この日の「自分の仕事」をやり遂げることに集中しようとします。

 2009121002.jpg
「今日はギルモアの日です。オレでよければ保証します」

目論見どおり、ペペのアタックが成功して、ギルモアを含む10人ほどの逃げ集団を作ることに成功します。このときギルモアがペペに対して「地元だからって、色気を出すなよ」と釘を刺しますが、ペペにとって地元への凱旋ゴールとなるステージであるにもかかわらず、そのことについてペペの態度がいたって淡白であるところが終盤にかけての重要な伏線となっています。

一方、ペペの地元では、ペペの兄・アンヘル(筧利夫)とカルメン(小池栄子)の結婚式が行われており、レースと同時進行でその模様が描写されていきます。この時点では「兄の結婚」と「ペペのレースにおける仕事」は、まったく別個のものであり、そこに直接的な関連性を見出すことはできません。チーム戦略という観点からハナからペペ自身に優勝の芽はないとは言え、ペペは地元ゴールに対して淡白であり、兄の結婚を祝して優勝してやろうなどという発想は皆無なのです。

そんな中、逃げ集団には有力なライバルがいて、チーム・パオパオビールとしてはさらにレースをかき回す必要が出てきます。ペペは、逃げ集団をさらにふるいにかけるために再度アタックしますが、誰も追いかけて来ないので、自分がノーマークとされている事実に憤慨します。そして、物語は劇的な転換点を迎えます。

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「またアタックだ!ペペ・ベネンヘリ。みるみる差は開いていく」

アンヘルとカルメンの結婚パーティーが行われている馴染みの酒場では、知人たちがレースを観戦しています。店の前をペペが通過すると、大盛り上がりを見せますが、直後に店の看板猫が道路に飛び出して、ペペの後ろの逃げ集団の何人かが落車してしまいます。選りによってこれにギルモアが巻き込まれ、レースを離脱してしまったことから、レース展開は大きく変化していきます。エースを失ったチーム・パオパオビールが取りうる選択肢は、ペペをこのまま逃げ切らす戦略しか残されていないのです。

これ以降、物語の焦点は、ペペの優勝に移りますが、この日のレースに対するペペのモチベーションが、自分のクビがかかっているとか、地元優勝といった単純なものではなかったことが明らかになると、観客の気持ちは一気にペペという人物に引き込まれ、我々も応援せずにはいられなくなります。そして、そのことを明らかにする兄弟の過去についての新事実は、見事な演出手法で表現されていきます。

ゴール地点でペペを迎えようと街に向かう車中で、ペペの兄・アンヘルは父親との会話の中で兄弟の過去に触れます。その中で明らかにされる、アンヘルの妻となったカルメンがペペの恋人だったという事実は、あまりにも唐突で衝撃的なものとして受け止められると思いますが、その衝撃事実に至る会話は、「兄と父が会話する静かな車中」と「ペペが必死にペダルを踏む激しいレース」のカットバックの中で描写されていきます。

その「事実」というのは、紛れもなくペペがプロのロードレーサーになった動機であり、ペペが「自分の仕事」をするもうひとつのモチベーションが明らかになった時には、我々はいつの間にかペペに感情移入しています。このシーンにおける「静」と「動」の切り返しは、見事にペペを取り巻く情感を表現していたと言え、そのことが序盤にペペがつぶやいた「遠くへ行きたい」という言葉の意味と繋がってくると、ペペという人物にさらに奥行きが付与されます。

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「おまえが好きなのさ」「好きよ!ぺぺ」「オレは嫌いだよっ!」

プロとして自分の仕事にひとつの結果を残したことで、ペペが言うところの「遠く」へ到達できた言えるところが、物語の結末をさわやかなものにしています。

総合評価 ★★★☆☆
 物語 ★★☆☆
 配役 ★★
☆☆
 演出 
★★★
 映像 
★★☆☆
 音楽 ★★★★


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