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おっぱいバレー [映画レビュー]

おっぱいバレー [DVD]

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おっぱいバレー

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おっぱいバレー
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『おっぱいバレー』
(2009年 ワーナー・ブラザーズ=東映 102分)
監督:羽住英一郎 脚本:岡田惠和 主演:綾瀬はるか
          Official / Wikipedia / Kinejun          

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(C) 「おっぱいバレー」製作委員会

私が最もテレビドラマをたくさん見ていた90年代にデビューし、私が大好きなテレビドラマをたくさん手がけている岡田惠和氏の脚本による作品ということで、そのストーリーは期待通り、上質のコメディとなっています。しかし、私がどうしてもその演出と作品を好きになれない羽住英一郎監督が本作を手がけることになったというのは、まったくもって不運としか言いようがありません。(←完全なる個人的見解です^^; 。)

優秀な助監督が優秀な映画監督になるとは限らない」という話を聞いたことがありますが、失礼ながら、その格言が羽住英一郎監督に当てはまってしまっているような気がしています。羽住監督は、映像制作会社ROBOT所属の映画監督ですが、私にとっては未だに『踊る大捜査線』(1996年 フジテレビ)のチーフ助監督という認識が強く残っています。大ヒットした『踊る大捜査線』シリーズですから、裏方も随分メディアに取り上げられましたが、羽住監督は名作を陰で支えた超優秀な助監督だったそうです。以下は、彼の作品を見た上での想像に基づいた分析です。

羽住演出の特徴を挙げると、大きく二つあります。ひとつめはとにかく「カメラを動かす」演出です。クレーン、ドリー、レール、ステディカムなどあらゆるツールを駆使して、とにかく画面を一ヶ所に固定することがありません。1カットに費やす労力を考えると、スタッフの努力には感服します。しかし、それぞれのカメラの動きにどんな意味があるのかを考えると、申し訳ありませんが「意味不明」であり、スタッフの徒労には同情するしかありません。

基本的にカメラを動かす演出というのは、当たり前ですが、被写体が動くときに使用されるものであり、そこに被写体を追いかけること以上の意味はありません。本作においては、たとえば、冒頭の自転車で走るシーンやバレーボールの試合のシーンでカメラを動かすことには当然意味があります。しかし、たとえば狭い部室のシーンで、バカ話をする中学生たちを右から左へカメラを動かして撮ることにどんな意味があるんでしょうか。

私にはその「意味」を読み取ることはできませんでしたが、監督がカメラを動かすことに「こだわる意味」を勝手に分析してみました。超優秀な助監督だった羽住監督にとって、特機やレールを設置したり、「ドンデン」したりといった作業を効率よく実施することは、得意とするところであり、その作業自体に映画作りの醍醐味を感じているのではないでしょうか。つまり、最初から何かを表現するためにカメラを動かすのではなくて、カメラを動かすことが映画を撮ることだと思っているのかもしれません。

羽住演出ふたつめの特徴は、「複雑なカット割」です。テレビドラマ出身の監督はカット数が多い傾向にありますが、それを差し引いても、この人の切り方は尋常じゃありません。なおかつカメラが動くわけですから、本作を見て、私はそれを「役者殺し」の演出と呼ぶことにしました。「余計な」ことをして、役者さんの演技を殺したシーンをひとつ挙げましょう。

主人公の美香子(綾瀬はるか)が学校の先生を志すに至るエピソードというのは、本作中で最も重要な要素のひとつであり、冒頭で本作のコメディのセンスを印象付けた高村光太郎の『道程』(どうてい)が、その点にも生かされてくるという見事な脚本となっています。そのうち、美香子が先生を志すきっかけをくれた恩師の真意を10年越しで初めて知るシーンは、本作中で唯一、おふざけなしで純粋に感動を呼ぶシーンだったと思います。

しかしながら、そんなシーンも羽住演出にかかれば、情緒もへったくれもありません。このシーンも複雑なカット割であらゆる角度から被写体を捉え、なおかつカメラを動かしていますが、「切り返し」と「インサート」の連続では我々の気持ちも乗り切らないし、それ以前に役者さんの演技そのものがブツ切りにされているわけですから、演じている綾瀬はるかちゃんの気持ちが乗り切った瞬間を押えることができているのかは甚だ疑問です。このシーンは、「映画監督」ならば、自己満足の小細工を封印して、1カットで撮るぐらいの心意気を見せて、役者さんの演技を最大限に生かす努力をするべきでした。

行定勲監督の『春の雪』(2005年 東宝)のメイキングを見て衝撃的だったシーンがあります。このシーンは、竹内結子ちゃん演じる主人公が恋人と別れた後、汽車が発車して、もう二度と会えないかもしれないことを思い、涙を流すまでの数分間を1カットで撮ろうというシーンですが、監督が「涙を落とすポイントが気に入らない」という理由で何十テイク(確か37テイクぐらい)も繰り返していました。傍(はた)から見れば理不尽とも思える監督の要求に応えようと、何度も気持ちを乗せて涙を落とす竹内結子ちゃんの「女優魂」もすごいと思いましたが、行定監督の妥協を許さないストイックな姿勢にも「映画監督魂」を感じました。

そんな仕事ができるのは、そこに役者さんと監督の信頼関係が存在しているからこそだと言えます。本作においても、監督が役者さんの演技力を信頼しているのならば、監督が「下手な小細工」をする必要なんてないはずです。というかそもそも羽住監督には、映画撮影の基本ともいえる「役者さんのお芝居を撮っている」という意識が低いのかもしれません。

ここからは再び私の想像に基づく分析ですが、羽住監督の映画作りの基本は、「あるものを伝えたいからこうやって撮る」のではなくて、「こうやって撮ってみました。あとは勝手に感じてください」というスタンスのような気がします。つまり、彼にとっては「映画を撮る」ことそれ自体が目的であって、映画を通じて何を表現するのかという「ビジョン」が希薄なんだと思います。カット割は複雑であればあるほど、カメラワークは手間をかければかけるほど、羽住監督の「個人的な目的」は達成されていくわけです。

ここまできて「優秀な助監督が優秀な映画監督になるとは限らない」理由に思い当たりました。おそらく優秀な助監督というのは、ある種、職人のようなところがあって、複雑で手間のかかるシーンを効率よくこなしていく「個々の作業」が得意なのであって、そこには全体的なビジョンが存在していないのだと思います。羽住監督の映画作りは、助監督の延長線上にあるものであって、映画を撮っていても、真の映画監督にはなりきれていません。「職人」がいなければ映画は撮れませんが、映画監督は「棟梁」でなければならないのです。

最後に、本レビューには「羽住英一郎監督は優秀な映画監督ではない」という大前提が存在してしまっていますが、それは完全なる個人的な見解であって、「単なる好き嫌いの問題である」とも言えることをお断りしておきます。

 
参考:岡田惠和氏が手がけた主な作品
 『若者のすべて』(1994年 CX)
 『輝く季節の中で』(1995年 CX)
 『ビーチボーイズ』(1997年 CX)
 『君の手がささやいてる』(1997年-2004年 ANB)
 『天気予報の恋人』(2000年 CX)
 『ちゅらさん』(2001年-2007年 NHK)
 『アンティーク~西洋骨董洋菓子店』(2001年 CX)
 『恋セヨ乙女』(2002年 NHK)
 『いま、会いにゆきます』(2004年 東宝)
 『小公女セイラ』(2009年 TBS)

参考:羽住英一郎監督が手がけた作品
 『海猿 ウミザル』(2004年 東宝)
 『逆境ナイン』(2005年 アスミック・エース)
 『LIMIT OF LOVE 海猿』(2006年 東宝)
 『銀色のシーズン』(2008年 東宝)
 『海猿3』(2010年公開予定 東宝)
 
 
    

総合評価 ★★★☆☆
 物語 ★★★
 配役 ★★☆☆
 演出 ☆☆☆☆
 映像 ☆☆☆☆
 音楽 ★★★☆☆


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わたしのグランパ [映画レビュー]

わたしのグランパ [DVD]

[ DVD ]
わたしのグランパ
( 東映ビデオ / ASIN:B00009YNID )

『わたしのグランパ』
(2003年 東映 113分)
監督・脚本:東陽一 出演:菅原文太、石原さとみ
          Official / Wikipedia / allcinema          

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(C) 2003 「わたしのグランパ」製作委員会

本作は、筒井康隆氏の原作を巨匠・東陽一監督の脚本で映画化ということで、正義感にあふれるおじいちゃん(グランパ)と孫娘の交流をさわやかに描いた魅力的な作品に仕上がっています。本作の演出面について云々言うのは、おこがましいので、今回は、実質本作がデビュー作となった石原さとみちゃんの女優としての魅力を書いていきたいと思います。

私が女優・石原さとみを初めてちゃんと認識したのは、NHKのドラマ『クライマーズ・ハイ(後編)』(2005年)でした。物語の終盤に登場するキーパーソンとも言える役でしたが、出番が少ないにもかかわらず、その存在感には強烈なインパクトがありました。このドラマには彼女の演技力の高さを認識するには、この1シーンでこと足りると言っても過言ではないシーンがあります。

新聞記者志望の女子大学生の役で、自分が書いた文章が読者投稿欄に掲載されて初めてその重みに気がつきます。その責任の重さを必死で受け止めようとする気持ちを、石原さとみちゃんは見たこともないような「大粒の涙」で表現します。当たり前ですが、そんな特殊な状況におかれることなんてありえないわけで、このシーンは、例えば「失恋をして涙を流す」などというシーンとは訳が違うのです。この複雑で特殊で難解な感情を完璧に理解し、完璧に表現した彼女は、当時18歳であり、どうしてそんな芸当ができるのかといえば、第一に豊かな想像力によるものだと思います。

本作において、石原さとみちゃんは各映画賞の新人賞を総なめにしていますが、本作の直感的印象を一言で言えば「天才少女現る!」であり、彼女の演技が高く評価されたのは至極当然のことだと思います。本編冒頭、今は亡きグランパを偲ぶという感情表現をメインとしたシーンから始まりますが、台詞はなくてもいきなりデビュー作とは思えない存在感を披露してくれます。

彼女の演技は、何かを伝えようとする意思の強さが前面に出るというよりも、目の奥にたたえる感情の奥深さがにじみ出ることによって表現されるような種類のものかもしれません。優れた「主役の存在感」というのは決して押し付けがましいものであってはならず、その役柄が我々の気持ちに自然と入り込んでくる、あるいは我々の気持ちが自然とその役柄に入り込んでいくというような種類のものでなければならないと思います。ちなみに「脇役の存在感」ということになると、本作でヤクザの子分役を演じた光石研さんのように押し付けがましくなければなりません(^^;。

技術的なことを言えば、台詞の抑揚のつけ方がとてもうまい女優さんだと思いました。抑揚といっても舞台俳優のように大げさであってはならず、映画やドラマの場合、台詞に気持ちを込める作業が重要になってきます。彼女の台詞回しには台詞の中で観ている人にどれを印象付ければいいのかを理解した上で演じているようなクレバーさを感じます。『フライング☆ラビッツ』(2008年 東映)や『ヴォイス~命なき者の声~』(2009年 フジテレビ)では、かなり早口の台詞が多い役柄でしたが、的確な台詞回しと表現力でコメディエンヌとしての新境地を開拓しました。

余談ですが、小栗旬君が蜷川幸雄氏の舞台に出演してからというもの、舞台演劇的な抑揚を映画やテレビドラマに持ち込んでしまっているのがとても残念です。ちなみに本作にも出演している浅野忠信さんは、自然な台詞回しという意味では近年の俳優さんの中では卓越していると思います。

話は逸れましたが、石原さとみちゃんの演技力が折り紙つきであることは間違いなく、本作に始まる実績も十分かと思いますが、今ひとつ出演作に恵まれていない感は否めません。本ブログでも取り上げた『フライング☆ラビッツ』が初主演映画だったわけですが、彼女の女優としての奮闘も虚しく、レビューに書いたとおり演出その他の理由により駄作に終わってしまいました。

どうも彼女の出演作には、東映=テレビ朝日=ホリプロのラインが見え隠れしていますが、所属事務所の商業的論理が彼女が真の実力を発揮する弊害になっているとしたらこんなに残念なことはありません。


参考:石原さとみちゃんの受賞歴
 第28回 報知映画賞 新人賞(本作、2003年)
 第16回 日刊スポーツ映画大賞 新人賞(同上)
 第25回 ヨコハマ映画祭 最優秀新人賞(同上)
 第46回 ブルーリボン賞 新人賞(同上)
 第13回 日本映画批評家大賞 新人賞(同上)
 第27回 日本アカデミー賞 新人俳優賞(同上)
 第41回 コールデン・アロー賞 最優秀新人賞(てるてる家族、2005年)
 第29回 エランドール賞 新人賞(WATER BOYS2、2005年)
 第29回 日本アカデミー賞 優秀助演女優賞(北の零年、2006年)

総合評価 ★★★☆☆
 物語 ★★☆☆
 配役 ★★★
 演出 ★★★☆☆
 映像 ★★★☆☆
 音楽 ★★★☆☆


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バッテリー [映画レビュー]

バッテリー [DVD]

[ DVD ]
バッテリー
( 角川エンタテインメント / ASIN:B001DSSKGO )


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バッテリー 特別編 (初回生産限定版) (あさのあつこ書き下ろし小説付)
( 角川エンタテインメント / ASIN:B000M2DJGS )
 

『バッテリー』
(2007年 東宝 118分)
監督:滝田洋二郎 脚本:森下直 出演:林遣都、山田健太
          Official / Wikipedia / allcinema          

2009101501.jpg
(C) 2007 「バッテリー」製作委員会 

本作を見て改めて感じたことですが、滝田洋二郎監督作品の演出上の最大の特徴は、「最初の5分間の瞬発力」にあるような気がしています。『おくりびと』(2008年 松竹)でも触れましたが、アバンタイトルにその映画の方向性を決める重要な要素を何気なく盛り込むことによって、見る者を物語の中に一気に引き込むのが滝田作品と言えるかもしれません。

例えば、『おくりびと』においては、アバンに「笑い」の要素を盛り込んで、エピソードが持つ湿っぽさを払拭し、物語全体を通しての「死」の演出方法を提示しました。また、『壬生義士伝』(2005年 松竹)においては、アバンに大掛かりな長回しのカットを採用し、殺陣の迫力を表現するとともに、主人公を取り巻く主要な登場人物を網羅するという「大技」に挑戦し、観客を作品世界に引き込むことに成功しています。

本作の冒頭は、家族で引越し先に向かうシーンから始まりますが、車内の4人家族の何気ない会話の中に主人公たる原田巧(林遣都)の家族内での立場がにじみ出ており、巧の台詞はひとつもないにもかかわらず、その人物像がなんとなく理解できてしまいます。観客は主人公の人となりに興味を持ち、これ以降主人公の行動の背景を読み取ることに注意を向けます。それはすなわち巧が野球をやる動機であり、そのことは終盤に向けて物語の重要な要素となっていきます。

この最初の5分間は、物語の帰結点を暗示しているとも言え、それによってその後のひとつひとつのシーンが持つ意味が明確となり、作品全体の完成度を高めることに貢献しているのです。

私は、『おくりびと』のレビューで滝田演出の特徴を「わかりやすさ」と表現しましたが、そのカット数の多さはテレビドラマにも匹敵するかもしれません。ただし、滝田監督のカット割は長回しのカットをベースにしており、その点はきわめて映画的なものと言えます。

もっとも単純なシーンは、被写体を1カットで撮ることですが、そこに被写体を別の角度から撮ったカットを繋いでいくことで、複雑化し、映像に様々な意味を付与していくのがカット割です。滝田演出のわかりやすさは、常に引きの絵から始まるカット割にあるような気がします。一般的には顔寄りから始まるシーンというのもよくあるものですが、被写体が置かれている場所を明示するカットが最初にあると、観客はそのシーンが持つ意味をすんなり理解することができます。

そして、その最初のカットはそのシーンを貫く長回しで成立しており、そこに顔寄りなどのカットを挿入することで、台詞や表情の印象付けていくのが滝田流の基本的なカット割ということができると思います。

また、本作を見ていて驚いたのは、映画にしては複雑なカット割にもかかわらず、すべてのカットが完璧に繋がっているということです。テレビドラマを見ていると、カットまたぎで役者さんの動きが繋がっていないことがよくあります。同じ演技が2度できない役者さんの技量もさることながら、ドラマの場合、それ以前に過剰に切り過ぎたカット割に問題があるようにも思われます。とはいえ、「カットを繋げる作業」というのは撮影においても編集においても、存外難しい作業であるということは間違いありません。

本作におけるカットの繋がりのなめらかさには、監督のこだわりが明確に存在していると思われます。繋がりを意識したら、動きがないポイントで切るほうが簡単に繋がりますが、本作ではあえて役者さんのはっきりとした動きがあるポイントで切るという高度なテクニックを用いています。かなりのリテイクをしていることが想像できますが、動きで繋がるカットというのは見ていて気持ちがいいし、「つまづき」がないので観客はそのシーンに集中し、引き込まれていくのです。

そして、本作を語る上で無視できないのが「野球」という要素だと思いますが、少年野球の雰囲気がしっかりと表現されていました。私も野球少年だったので、思わずほくそえんでしまうような懐かしい描写が散りばめられていました。特に印象に残っているのが仲たがいした巧と豪(山田健太)が和解するシーンに登場する「ボールの早回し」です。

「早回し」というのはボールを相手の胸元にしっかり投げないと、流れが止まってしまうので、それなりの技量と連携を必要としますが、それが長く続いたときの爽快な連帯感には、野球の醍醐味とも言える気持ちよさがあります。このシーンで二人はほとんど言葉を交わしませんが、きれいな「早回し」を登場させることによって、野球を通じて気持ちが通じあったことが見事に表現されています。

それと、巧の投球フォームの美しさも本作の野球表現に説得力をもたらしていると思います。決して教科書どおりのフォームとも言えませんが、頭の後ろから出てくる腕がしっかりと振り下ろされており、速い球を投げるフォームとしては至極納得のいくものとなっています。林遣都君のデビュー作ということで、その演技はかなり荒削りなものでしたが、野球を通じて表現された存在感は主演としての役割を十分に果たしたものだったと思います。

総合評価 ★★★★
 物語 ★★★★
 配役 ★★★
 演出 ★★★★
 映像 ★★★★
 音楽 ★★★★


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虹の女神 Rainbow Song [映画レビュー]

虹の女神 Rainbow Song [DVD]

[ DVD ]
虹の女神 Rainbow Song

( アミューズソフトエンタテインメント / ASIN:B001MC02Q2 )

『虹の女神 Rainbow Song』
(2006年 東宝 117分)
監督:熊澤尚人 脚本:桜井亜美、齋藤美如、網野酸 出演:市原隼人、上野樹里
          Official / Wikipedia / Kinejun          

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(C) 2006 「虹の女神」製作委員会

「故人から遅れて届いた手紙がもたらす切なさ」というのは、本作のプロデューサーである岩井俊二氏がその長編デビュー作『Love Letter』(1995年)で劇的に確立し、今となっては多様に使用されているドラマの手法です。本作においても序盤の何気ないシーンが伏線となって、ラストに故人のメッセージが主人公の心に届きます。

本作において重要なのは、そのラストのサプライズに向けて、そのメッセージの内容と性質を主人公および観客に秘匿しておくことだったと思います。それでいて我々に対しては決して唐突であってはならず、その気持ちに至る過程をしっかりと描いていかなければなりません。

7つの章からなる本作は、第1章が終章につながり、その間は主人公ふたりの過去を順を追って描いていくという構成になっています。過去に戻る第2章以降、我々は漠然とふたりの恋愛関係に目を向けますが、ふたりの間に存在するそのような種類の感情がいたって淡白であることを認識します。

それでも終盤、岸田(市原隼人)が冗談で言ったプロポーズに対して、あおい(上野樹里)が感情的に怒りを露わにしたシーンで初めて、あおいの岸田に対する特別な感情を嗅ぎ取ります。あおいがロサンゼルスに旅立つ直前にはその気持ちがはっきりするわけですが、序盤から中盤にかけてのふたりの恋愛に関する希薄な描写から我々が抱く疑問は、あおいが岸田に対して「いつから」特別な感情を抱いていたのかということです。

ラストシーンで岸田は初めてあおいの気持ちを知るわけですが、一足先にそのことを知ってしまっている我々にとってのサプライズは、その感情が表現された「時期」にあるのです。あおいが岸田のラブレターを代筆するシーンは、かなり序盤にあったということにまず驚きます。そして、そのシーンは、ラストのサプライズの瞬間までは、むしろふたりの淡白な男女関係を印象付けるシーンとして存在していたところが、そのサプライズに深みをもたらしています。ひとつのシーンにまったく正反対の二重の意味を持たせるという伏線の張り方は、実に見事なものだったと言えます。

また、冒頭のシーンが終章でリフレインされますが、終章ではそのシーンが岸田が失恋した日であることが明らかになります。その日に見た虹は、かつてあおいと一緒に見た珍しい虹であることから、岸田はあおいのことを思い出します。そして岸田が期せずしてその珍しい虹を表現した「不吉な」という言葉に、冒頭では読み取ることができなかったもうひとつの意味が付与さているところにも切なさが際立ちます。

以上のことからも「虹」は、本作において重要な要素となっており、虹を印象付けることが本作演出上の鍵だったと思います。その虹は出会ったばかりのふたりの誤解が溶けるという序盤のシーンで象徴的に登場します。岸田が1万円札の指輪をあおいの指にはめるという行為にふたりの間の壁が取り払われたことが表現されていますが、そのあとに登場する「架け橋たる虹」は、今後のふたりの特別な関係を予感させるという重要な役割を果たしています。

このシーンは、河岸を前後して歩くふたりを横から追いかけるという長回しのカットで成立しており、実に巧妙に仕組まれた見事なシーンとなっています。最後に岸田が虹を見つけると当然カメラは空へパンすると思いきや、意外なことにカメラはふたりの足元を捉えます。そして、それが「水たまり」に反射する虹という、いわば間接表現だったところがかえって虹を美しく見せおり、虹を鮮烈に印象付けることに成功しています。笑顔のあおいが水たまりに映し出されるというエンドロールからも、それは本作における象徴的な演出だったと言えるでしょう。

また、本作を語る上で無視できないのが、上野樹里ちゃんの卓越した演技力です。本作の役柄は「映画作りに情熱を燃やす超おくてのもてない大学生」というもので、このうち「もてない女の子」の表現は、彼女自身のかわいらしさもあって簡単ではなかったと思いますが、男勝りの言動で見事に表現しています。

チルソクの夏』(2004年 プレノンアッシュ)でも感じたことですが、彼女の持ち味は日常の淡々とした自然なお芝居であり、そのようなベースの上に成立した人物の感情表現には大変な説得力が生まれます。本作においては、岸田の冗談のプロポーズに対して露にしたあおいの率直な感情表現が、まさに彼女の演技力の真骨頂と言えるところであり、我々の心を揺さぶります。

その一方で「のだめ」みたい役柄もこなしているところが、彼女の卓越した演技力と女優としての存在感を証明していると思います。最近はコメディ路線が多い上野樹里ちゃんですが、個人的にはコメディよりも、本作のような等身大の役を演じる彼女の方に魅力を感じます。

総合評価 ★★★★
 物語 ★★★
 配役 ★★★
 演出 ★★★★
 映像 ★★★★
 音楽 ★★★★


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感染列島 [映画レビュー]

感染列島 スタンダード・エディション [DVD]

感染列島 スペシャル・エディション(2枚組) [DVD][ DVD ]
感染列島 スタンダード・エディション
( 東宝 / ASIN:B0026P1L0K )


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感染列島 スペシャル・エディション(2枚組)
( 東宝 / ASIN:B0026P1L0U )


[ Blu-ray ]
感染列島
( 東宝 / ASIN:B0026P1L1E )

『感染列島』
(2009年 東宝 138分)
脚本・監督:瀬々敬久 出演:妻夫木聡、檀れい
          Official / Wikipedia / allcinema          

2009101701.jpg
(C) 2009 映画「感染列島」製作委員会

日本の映画界には、大きい予算で制作されるハリウッド志向の大作映画を撮れる監督もプロデューサーもまだ育ってません。大きな予算と多くのスタッフを動かすというのは、相当な経験とノウハウを要するはずであり、その点ではあらゆる制作過程がシステマチックに確立されているハリウッドに一朝一夕で対抗できるわけがありません。

まずこれだけ複雑で専門的な要素を持つ作品の脚本をひとりで書いているという事実に驚いてしまいました。ましてや監督が脚本を書いているといういわばワンマン作品となっているわけですが、本作のような予算をかけた大作映画でそんな芸当を成し遂げることができる監督といえば、邦画史上、黒澤明監督しか思い浮かびません。そもそも本作がハリウッドを意識しているのかは不明ですが、少なくともハリウッド映画に倣って、徹底した役割分担の元に製作されるべき作品だったことは確かなような気がします。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

本編全体を通じて言えることですが、本来ウソであるフィクションをウソっぽく見せないという、映画における最も基本的な作業にことごとく失敗しているように感じました。致命的だったのは、最も重要な要素である感染症がどんな性質のものなのかが明確に設定されていない点だと思います。

悲惨な死に方をする人もいれば、完全に治癒する人もいるし、症状が出てすぐに死ぬ人もいれば、数日後に死ぬ人もいる、などなど、それぞれのエピソードに都合よく合わせた病状には「ウソっぽさ」を感じずにはいられません。最終的に1000万人以上の死者を出した感染症なのに完全に治癒した人が少なからずいて、しかも未だいかなる感染症なのかが判明していないのに退院させてしまうというのも、ラストの血清による治療のエピソードへの「都合のいい」布石だったとしか思えません。未知の感染症なんだからなんでもありという製作者の都合のいい解釈が見え見えでした。

また、現実世界において「新型インフルエンザ」がもたらす世界への影響と各国政府の対応を目の当たりにしてしまったということを差し引いても、本作における日本政府の対応の杜撰(ずさん)さにはまったくリアリティがありませんでした。最前線の病院を描くことに主眼を置いていたとは言え、序盤に厚生労働省の役人が申し訳程度に登場するのみという「国の対応」の描き方は、中途半端だったとしか思えません。例えばですが、総理大臣の記者会見のシーンが一発あるだけで、その深刻度と国の総力を挙げての対応が十分に伝わってきたと思います。これでは感染症の拡大が不可抗力によるものだったというよりも、「人災」だったと捉えることもできてしまいます。

物語の展開も実に散漫でした。たとえば、藤竜也さん演じる大学教授が、中盤に突如として自分がガンに冒されていることを告白した上で「ウィルスと人間の共存」という自論を持ち出し、さもそれがこの感染症治療の重要な鍵になるように思わせます。しかし、それ以降その話は膨らまず、教授はウィルスの発生源を突き止めて命を落とします。おそらくその死因は感染症なんだと思いますが、持病のガンで死んだことも否定できない中途半端な描き方であり、どちらにしても「ウィルスと人間の共存」は不可能であるということの証左を身をもって示したことになり(ガンはそもそもウィルスではないが)、まったくもって「あれ」はなんだったのかと思ってしまいます。

そして、極めつけは主人公二人によるとってつけたようなロマンスの安っぽさです。序盤二人が恋人同士だった過去が明らかになりますが、それ以上の描写はないので、二人の恋愛に感情移入する術がありません。にもかかわらず、唐突に「あなた変わらないのね」から「あなた変わったわね」に気持ちが変化し、終盤いつの間にか二人の「より」が戻っても、我々は他人の恋愛を冷めた目で見るしかありません。

ラストで今さらながら、そんな二人の馴れ初めが描かれますが、「そんな話聞いてないよぉ!」みたいな新事実を立て続けに提示して、強引な帰結に持っていくというのは、稚拙な脚本と言われても仕方がないように思われます。難しいかもしれませんが、二人の過去のエピソードについては、序盤にうまく挿入することができていれば、もっと二人に感情移入できていたはずです。

また終盤、栄子(檀れい)がどういうわけか長野に異動することになるわけですが、要は「リンゴの木」のエピソードに結び付けたいという安易な発想と場所選びが手に取るようにわかってしまうところも稚拙でした。


冬季のリンゴの木(長野県) 参考:国内のりんご生産量(平成18年)
  第1位 青森県 441,500t (53.1%)
  第2位 長野県 177,700t (21.4%)
  第3位 岩手県  57,700t (6.9%)
  第4位 山形県  51,100t (6.1%)
  第5位 秋田県  33,800t (4.1%)

以下、とある会議室にて。

「リンゴの木が普通にある場所ってどこですかね?」
「そりゃ、青森でしょ」
「青森は遠すぎるだろ。東京から車で行ける範囲じゃないと」
「そうそう、最後は車がガス欠して、ブッキーを走らせるんだから」
「長野はどうです?りんごの生産量全国二位ですよ」
「距離的にもちょうどいいねぇ。よし決まり!」

そして、実(み)はもちろん葉っぱすらない冬木立を遠目から見て、それがリンゴの木であることを見分けてしまう松岡(妻夫木聡)の、医師でありながら博物学にも精通した秀才ぶりにも驚かされました。そんな彼は、感染症が収束して一段落すると、何を思ったのか北海道で「ほのぼの地方医」になります。なんで?あまりにも唐突過ぎて、ここでも「そんな話聞いてないよぉ!」と言いたくなってしまいます。

粗探しをすればキリがない作品ですが、あえて見所を挙げるとすれば、檀れいさんの美しさでしょうか。特にラストに若い頃の役として登場する檀れいさんのチャーミングなことといったら、本当にうっとりしてしまいました。しかし、その流れで、あんなにキレイな人が「背もたれのないイスで居眠りできる特異体質」だった、などという事実が判明しては、まったく興ざめです。結局粗探し(^^; 。

総合評価 ☆☆☆☆
 物語 ☆☆☆☆
 配役 ☆☆
 演出 ☆☆☆☆
 映像 ☆☆☆
 音楽 ★★☆☆☆


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