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僕等がいた 後篇 [映画レビュー]

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(C)2012 「僕等がいた」製作委員会

『 僕等がいた 後篇 』
( 2012年 東宝=アスミック・エース 121分 )
監督:三木孝浩 脚本:吉田智子 主演:生田斗真、吉高由里子
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僕等がいた 前篇

前篇のレビューを書いたので、行きがかり上後篇のレビューも書きますが、私はこの作品に「映画」としての価値をあまり見出すことはできませんでしたので、本来ならレビューを「書かない」という選択をしていたと思います。前回も触れたとおり、私は「映画の価値」とは、ひとつひとつのに観客が何かを感じ取れるだけの力強さがあるかどうかだと考えています。そういう観点で前篇の演出も酷評したわけですが、後篇は演出だけを論じればはっきり申し上げて、論外。監督は何も仕事をしていないとまで言わなければなりません。監督のイマジネーションは前篇だけで枯渇してしまい、同じ分量の後篇を作るだけの引き出しはなかった、というのが私の率直な印象です。演出は切り捨てると言ったのに、結局レビューは演出を論じることになります。

矢野(生田斗真)の視点を中心にすえた後篇のストーリーは、前篇と比べると格段に暗い。矢野が一人で抱えてきた心の闇が物語が進むにつれて露になり、大きくなっていくという、お世辞にも面白いと言えるストーリーではありません。しかし、主人公が人知れず背負ってきた過去やそれに伴う心の葛藤を描くことは、映画のテーマとしてはそれだけで十分に成立し得るものだし、この映画の評価はそのことのみをもって決めることはできないと私は考えています。つまり、「闇」を前面に出したストーリーにどれだけ観客を惹きつけておけるかはほとんど監督の手腕にかかっているということです。

それなのに前半40分ぐらい(時計ばかり見ていたからよく覚えている)まで、映画らしいはただのひとつもないという体たらく・・・。40分目にしてようやく現れ、私が惹きつけられた映像とは、東京にいる矢野が故郷の釧路に思いを馳せ、空想の中で高橋(吉高由里子)に逢いに行くシーンで、高橋に早く会いに行きたいという矢野の逸る気持ちが映像によってうまく表現されていたと思います。私はいよいよかと、このシーンを境に身を乗り出したのですが、残念ながら映画的にはこれがマックス。ただ単にシチュエーションを撮って、何の考えもない体裁だけの編集をした映像がこれ以降も相変わらず垂れ流されるのです。

はっきり申し上げて、この監督には映像を魅力的に見せるテクニックがないんだと思います。なけなしのテクニックは前篇で使い果たしちゃったから、後篇は輪をかけてすっからかん。そういう時は音楽でごまかせばいいのに(ごまかしている時点でアウトだが・・・)、前半は特にですが、この方は「あれ、付け忘れちゃったの?」っていうぐらい音もほとんど使わないし、使っても主張させない。そして終盤、こんな演出をしているやつはもう映画監督を名乗る資格はないと思ってしまったシーンが登場します。

本作はラブストーリーでありながら、主人公二人が見(まみ)えるシーンが終盤までひとつもなく、そういう意味では主人公二人の相手を想う「心」を描いた精神的恋愛映画とでも言うべき側面を有していたと思います。そう考えると終盤、5年間音信普通だった二人が東京で再会するシーンがどれだけ大きな意味を持っているかは容易に想像がつくところだと思いますが、監督がこのシーンの重要性をどこまで理解して演出をしていたのかは甚だ怪しいものです。

矢野の消息を知り、彼が現在置かれている境遇を知った高橋は、いよいよ矢野に会う決心をします。仕事をやめた矢野が今まさに旅立たんとする空港で彼の後姿を見つけた高橋は迷わず声をかけるのです。しかし、振り返った矢野は、最愛の人との5年ぶりの劇的再会にもかかわらず、「よぉ!高橋じゃないか久しぶり!」という軽いノリ。これには高橋じゃなくても「えっ!?」ですよね。映画として問題なのは、この一見して軽い台詞が本当に軽いところにあるのです。

それではなぜのこの台詞が額面どおりの軽さをもって受け止められてしまったのでしょうか。単純な話、画面に矢野の気持ちが映っていないからです。もしかしたら監督の意図は高橋の視点を見せることを軸にしていたのかもしれませんが、だとしたらそれ自体が誤りなのです。なぜならこの再会は主人公二人にとってまったくの等価値の意味を持っているはずであり、それを踏まえて映像表現上も二人の視点を平等に描かなければならないからです。二人の再会のシーンで矢野の気持ちをないがしろにしていいわけがないでしょう。それなのに振り返って放つこの台詞に至るまでの矢野の心の葛藤を画的にまったく見せていない、というより意図的に秘匿してしまっている。

「よぉ!高橋じゃないか久しぶり!」

観客はポカーンですよ。背後から5年振りとはいえ、あの聞き慣れた高橋の声が聞こえた瞬間、矢野は心臓が止まりそうになるぐらいドキッとしたはずなのです。そして、唐突に訪れた高橋との再会にどう対処したらいいのか、頭をフル回転させて考えたはずなのです。その末に考え付いたのがこの言葉なのです。とても人に言えるようなものではない自分が置かれた境遇を、ましてや最愛の人に悟られるわけにはいかない・・・高橋の同情なんか欲しくはない・・・再会の喜び以上に男としてのプライドが導き出した結論がこの台詞なのではないでしょうか。

登場人物の心の動きを映像に焼き付けるのが映画監督の仕事ではなかったのですか?俳優さんの表情を魅力的に映し出し、目に見えない感情の機微を浮き彫りにするのが映画監督の仕事ではなかったのですか?映像技術を駆使して観客に「台詞の裏」を読ませる仕掛けを作るのが映画監督の仕事ではなかったのですか?プロの映画監督ならば、むしろこの軽い台詞でこそ観客を泣かさなければなりません。冒頭で監督が何も仕事をしていないと言った意味がこのシーンひとつとってもお分かりいただけると思います。

最後にひとつ言っておかなければならないのは、私はこの映画のストーリー、脚本自体はそんなに悪いものではなかったのではないかと思っているということです。出来上がったものを観てしまっている以上、はっきりと確信を持って言えるわけでもないのですが、監督の腕次第で作品の印象がまったく異なるものになることがあるのは事実だと思います。

たとえば、『ハナミズキ』(2010年)を撮った土井裕泰監督、『君に届け』(2010年)を撮った熊澤尚人監督、あるいは三木監督と同世代の若手映画監督、深川栄洋監督あたりが本作を手がけていたらもっと魅力的な映画になっていたかもしれません。特に深川栄洋監督は『白夜行』(2011年)や『洋菓子店コアンドル』(2011年)において主人公の暗い過去と心の葛藤を映像技術をもって巧みに表現することに成功しており、深川監督なら「闇」すらも魅力的なものに仕上げてくれたことでしょう。本作は前篇と後篇でこれだけ物語のテイストが異なるのだから、それにあわせて監督を変えるというアイデアがあっても良かったかもしれません。

少なくとも三木監督がこの脚本のポテンシャルを最大限に引き出したとは到底言いかねるのは間違いのないところで、この人はそもそも物語のそこかしこに散りばめられた「人の気持ち」を的確に汲み取っていくことが不得意な方なんだと思います。そのことは前篇でも同様に強く感じたことです。それでも映画監督が務まるのか、という話なのですが、どうやらやりようによっては務まってしまうのが現在の日本映画界のようです。私に言わせれば、これこそ「何もないのに然もあるかのように見せるのが巧い似非ディレクター」の類なのですが。

関連記事 : 僕等がいた 前篇 (2012-04-03)

総合評価 ★★☆☆☆
 物語 ★★★☆☆
 配役 ★★★☆☆
 演出 ☆☆☆☆(井筒監督流に言えば、「こんなやつの映画は二度と観ない」と言っちゃえるレベル)
 映像 ★★☆☆☆
 音楽 ★★☆☆☆


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