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花のあと [映画レビュー]

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『 花のあと 』
( 2010年 東映 107分 )
監督:中西健二 脚本:長谷川康夫、飯田健三郎 主演:北川景子
          Official Wikipedia / Kinenote          

公開中の作品をこのブログで取り上げるのは本作が初めてとなります。このブログでは、できるだけ作品のテーマ性を正確に把握した上でレビューを書きたいという想いから、劇場で見たものについてもDVDが発売、レンタルされてから作品を再度鑑賞した上でレビューを書くことにしていますが、本作については著名な原作があって、私も事前に何度も読んだ作品なので、そのテーマについては正確に理解しているつもりでおります。したがって、今回は早速、原作が有するテーマおよび世界観についての本作における表現手法という視点を中心に作品をレビューしてみたいと思います。

単刀直入に申し上げれば、本作は歴代の藤沢作品の映像化では最低の出来であると言わざるをえません。脚本はすでに『山桜』で藤沢周平作品の世界観を忠実に表現しているお二人ですので、本作の出来は中西健二監督の藤沢作品についての理解不足、ひいては時代劇という分野についての無知と経験不足によるものであることは明白であり、今回は主に演出面を酷評させていただきます。

まず、藤沢作品についての理解不足と書きましたが、そのことを象徴する演出をひとつ紹介します。藤沢作品のうち特に「海坂もの」と呼ばれるジャンルの小説においては東北地方の自然描写が克明になされており、映像化にあっても、海坂藩が存在したとされる山形県の庄内地方の風景を盛り込むことが定番となっています。本作でも主に場面転換などでそのような実景ショットが頻繁に挿入されておりましたが、私は、それらからは今ひとつ「海坂藩」を感じることはできませんでした。その理由は、本作における自然描写が、ただ単に「東北地方の美しい風景」という意味合いでしか存在していないからだと思います。

原作における海坂藩の自然描写とは、そこに生きる人々の営みを含んだものであり、映像化に当たって留意すべきは、「自然=農村の背景」という考え方だと思います。したがって、本作における山河の自然描写というものは、たとえば『劒岳 点の記』におけるそれとは性質を異にするものでなければならないのです。過去の藤沢作品の映像化を振り返ったとき、そのような考え方は実景ショットはもちろんストーリーにも当たり前のように盛り込まれており、同じ山並みを撮るにしても、それらを田畑の背景として描写することが重視されていたような気がします。

また、本作の原作には、農村の描写というものはほぼ存在しませんが、本作と同様に長谷川、飯田両氏が脚本を担当した『山桜』の原作にあっても超短編ということもあって、農村の描写は希薄でした。それにもかかわらず、映画のストーリーには執政の腐敗が農村の疲弊を生み出しているというエピソードが新たに付け加えられ、物語に奥行きを出すことに成功しており、農村というエッセンスは「海坂もの」の根幹を成す描写と言っても過言ではないだけに、このことは脚本のお二人が藤沢周平の作品世界を十二分に理解していることの証左だと思っています。そして、そのことを汲んだかのように『山桜』の篠原哲雄監督は、農村の描写を重視しており、象徴的だったのは山並みを背景として大名行列を田畑と同じ画面に入れて表現したラストカットだったと思います。

さて、そのような視点で本作における自然描写を振り返ると、農村の描写をストーリーに盛り込むことは困難だったかもしれませんが、少なくとも映像的な風景描写だけを取り出せば、中西監督の実景ショットの選択基準が単に「美しい風景」に基づくものに過ぎず、そこに藤沢周平作品の世界観を盛り込むという考え方は皆無だったと言い切ってしまっていいと思われます。美しい山並み、美しい川の流れ、美しい四季・・・、自然描写のすべてはおそらく監督の美的センスに基づくものに過ぎず、それらが作品の世界観を表現するためではなく、監督の自己満足のために使用されてしまったことは大変残念なことです。

そして、そのこととも関連してくるのかもしれませんが、冒頭の花見のシーンでもきわめて短絡(と思われるよう)な桜の描写が繰り広げられています。本作における「桜」は、当時の武家の女性の生き方を託した存在であり、『花のあと』というタイトルの「花」とは「青春」と置き換えられるものです。武家の女性にとっての青春とは、桜と同様に盛りが短いものであり、「花のあと」にこそ本当の意味での武家の女性としての人生が始まるということを暗喩しています。主人公の以登(北川景子)が冒頭の花見のシーンで、そのことを知ってか知らずか、満開の桜を見ながら「惜しいこと・・・」とつぶやきますが、この台詞には桜の盛りの短さを嘆く気持ちとともに、「武家の女性にとっての青春という時代の儚さ」という意味合いが込められています。実際、以登が江口孫四郎(宮尾俊太郎)との手合わせで胸を焦がし、その無念を晴らすまでというのは、桜の盛りのごとく青春が凝縮された時季であり、短く儚い青春時代と青春のあとに以登が許婚の片桐才助(甲本雅裕)と連れ添う日々との対比こそが本作のテーマだったと言えるでしょう。

したがって、この冒頭の花見のシーンは、以登と孫四郎の出会いの描写も重要ですが、それ以上に「桜」というものにいかに本作のテーマ性を付与できるかが監督にとっての重要な仕事だったと言えると思います。私は、それらのことを念頭にこの冒頭のシーンに臨みましたが、ありきたりな桜のカットが繋がれる中で、掘割の水面にせり出す桜の枝を捉えたほぼ同ポジと思われるカットが複数回にわたって登場したところに、何らかの監督の意図が込められていると受け取りました。ほとんど同じカットを1シーンに5回も挿入するという演出は映画では異例だと思いますが、このカットが2度目に登場したときに先ほども触れた以登の「惜しいこと・・・」という台詞がかぶせられていたので、監督がこの桜の枝のカットに何らかの特別な意味を付与したかったのは確実だと思われます。

しかし、まったく同じカットを複数回挿入したからと言って、当たり前ですがそのことをもってそこに何らかの意味が自然に発生するというものではないし、それだけで観客に何かを感じろと言うのは無理な話です。私は終盤にかけて、あのカットの意味を必死で汲み取ろうとしていたのですが、うまく解釈できぬまま、ラストの花見のシーンに突入すると、再び例のカットが登場するではありませんか。私の期待は否が応にも高まってしまいました。本作のテーマが念頭にあれば、その桜が「散る」と考えるのが普通であることは、ここまで読んでいただいた方にはご理解いただけると思います。しかし、このラストシーンでも2度にわたって例のカットが登場したにもかかわらず、結局単に「まったく」同じカットを繰り返して挿入したに過ぎなかったのです。

仮に、このラストシーンの2度目に登場した例のカットで、たとえば桜の枝に風が吹き抜けて花びらが掘割の水面に落ちるなどの「変化」が描写されていれば、それは紛れもなく以登にとっての青春との決別を表現したものと受け取ることができるし、こんなに秀逸なテーマ表現はないと思います。そして、冒頭でくどいほど同じカットを盛り込んだことがそのラストに大いに生かされてきたと思いますが、いかがでしょうか?先にも述べたように監督がこの桜の枝のカットに何らかの意味を込めたかったのは間違いないとは思いますが、そもそも原作のテーマ性への理解度が足りなかったがために表現の詰めを欠いてしまったことも同時に間違いないものと思われます。残念なことに「美しい桜」のカットは「美しい実景ショット」と同様に監督の自己満足で終わってしまいました。

申し訳ありませんが、酷評はまだまだ続きます。私は、中西健二監督の作品を見るのはこれが初めてですが、正直なところ、本作の冒頭5分で、中西監督の映画監督としての力量が凡庸であることに気がついてしまいました。そのことを象徴する演出が「台詞で切る」カット割です。台詞をしゃべる人にカメラを向けてそれを台詞ごとに繋いでいくという演出は、「稚拙」以外のなにものでもなく、台詞をしゃべっている人を撮っているに過ぎない演出は、少なくとも映画というジャンルの映像表現としては相応しくないと思います。

脚本に書いてある台詞というものは、独り言ではない限り、台詞をしゃべる人がいると同時に台詞を受け止める人がいるというのは当たり前のことであり、シーンによって差はありますが、個々の台詞は少なくとも両者にとって等価値以上のものでなければなりません。台詞をしゃべる人「だけ」を撮って繋いでいく演出というものは、もう一方を完全に切り捨てたものであり、その時点でこの監督は台詞についての解釈を怠っているか、軽視していると思われても仕方がないように思われます。中西監督の割本(わりぼん=カット割などの映像表現の方法を記入した台本)を想像すると、行ごとに縦線が入ったシンプルなものじゃないでしょうか。そんな紋きり型の映像表現で何かが伝えられるとは到底思えません。しかもそれらのほとんどが顔寄りのカットであり、画的にも工夫しようという気概がまったく感じられませんでした。

さらに、中西監督は、時代劇というジャンルの基本的表現の方法論に明るい方ではないのだと感じました。初めて時代劇を撮るからといって「型」にはめて映画を作れとはいいませんが、基本的な「型」を知らずして撮れるほど時代劇は甘くないというのも事実だと思います。その中でも殺陣と所作という時代劇の「型」の2本柱の表現について触れてみたいと思います。

殺陣については、北川景子ちゃんの頑張りもあって概ね好ましいものとして受け止めました。かといって本作を素晴らしい殺陣が盛り込まれた時代劇映画だったと評することはできませんが・・・。突っ込みを入れれば、脇差による腹部への一突きで即死するほど人間はやわではないし、本格的時代劇の表現としては、倒れてもがき苦しむ藤井勘解由(市川亀治郎)の首に短刀を当てるなどの「とどめ」の描写を盛り込んでもよかったと思います。あくまでも殺陣が「命のやり取りである」という視点は、山田洋次監督の3部作では一貫して盛り込まれていた部分です。

さて、所作については再び酷評に戻らざるをえません。山田洋次監督は、3部作の中で「襷掛け」という行為に武家の女性の所作の美しさを表現すると同時に、彼女たちの甲斐甲斐しさと夫に対する気遣いの深さを込めていますが、それは山田洋次監督の美学が感じられるひとつの見所となっています。

本作においても、おそらくそのような意味合いを込めたと思われる所作がありました。武家の女性が部屋に入るときの所作が登場するシーンは、私の記憶では、以登が合計3回、加世(伊藤歩)が合計2回あったと思います。そして、そのすべてで「障子を開けてから膝で部屋に入って障子を閉めて手を着いて頭を下げる」までの動作が一連して描写されていることから、監督の意図が所作そのものを見せることにあったというのは間違いないと思います。

しかし、時代劇初挑戦の女優さんたちにとってそのような何気ない時代劇の所作は、殺陣以上に難しかったと見えて、ひとつひとつの動きが繋がって初めて美しさが付与されるのが所作なのに、残念ながら所作の「流れ」というものがまったく表現できていませんでした。そのことは当然表現者の力不足に原因を求めなければならないところですが、「出来ていない所作」を複数回に渡って盛り込んだのは監督であり、私には信じられないことですが、監督はあの所作に美しさを見出すことができてしまう人なんだと思います。特に、序盤、以登が父・寺井甚左衛門(國村隼)に江口孫四郎との手合わせを懇願するシーンと、中盤、寺井甚左衛門が以登に脇差を手渡すシーンでは、ご丁寧にワンカットで20秒近くも無音でその動きを見せており、監督の美的センスを疑わざるをえない部分です。

また、クライマックスの殺陣が終わって片桐才助が以登を見送るシーンは、以登の後姿を捉えるカットで終わっていますが、北川景子ちゃんが摺り足ではなく、袴履きによるものなのか、普通に歩いてしまっています。細かいことを言うようで恐縮ですが、武家の女性の最も基本的な所作と言える「歩く」というお芝居に気を配れないところに、この監督の所作についての表現の甘さと細部への思慮の浅さを再確認してしまいました。そのあたりは監督の経験不足というよりも、時代劇というジャンルの研究度(鑑賞回数)が絶対的に不足していることによるもののような気がします。この方は黒澤明を観たことがあるんでしょうか。映画作りを生業としている人が黒澤作品を観ていないなどということはありえないことだとは思いますが、少なくとも時代劇が表現すべき本質を理解していないことは確かなような気がします。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

近年の日本映画界における時代劇は、『GOEMON』や『TAJOMARU』、『カムイ外伝』、『隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS』などの現代的な解釈に基づいたジャンルが確立されつつありますが、正統派時代劇を撮ることができる映画監督がいないから「新解釈」と称してそのようなジャンルに逃げているのかもしれません。本作は、若手監督には正統派時代劇は撮れないということを確認させられる作品であり、時代劇というジャンルの将来を慮(おもんぱか)らずにはいられません。日本映画界は、時代劇映画の巨匠、市川昆監督や山田洋次監督の後継者が存在していないことにもっと危機感を持たなければならないのかもしれません。

総合評価 ★★☆☆☆
 物語 ★★★★(片桐才助という人物像の解釈は、映画に相応しいものだったと思う。)
 配役 ★★☆☆☆
 演出 ☆☆☆☆
 映像 ☆☆☆☆
 音楽 ★★★★

(追記)本作における所作について、的確に分析している文章を見つけました。
http://d.hatena.ne.jp/clementia/20100405

関連記事 : 必死剣鳥刺し (2010-07-31)
山桜 (2009-09-27)


 参考:藤沢周平作品の映画化
   『たそがれ清兵衛』(2002年 松竹 山田洋次監督) ※「たそがれ清兵衛」「祝い人助八」「竹光始末」
   『隠し剣 鬼の爪』(2004年 松竹 山田洋次監督) ※「隠し剣鬼ノ爪」「雪明かり」
   『蝉しぐれ』(2005年 東宝 黒土三男監督)
   『武士の一分』(2006年 松竹 山田洋次監督) ※「盲目剣谺返し」
   『
山桜』(2008年 東京テアトル 篠原哲雄監督)
   『花のあと』(2010年 東映 中西健二監督)
   『必死剣鳥刺し』(2010年 東映 平山秀幸監督)


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