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群青 愛が沈んだ海の色 [映画レビュー]

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群青 愛が沈んだ海の色

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『群青 愛が沈んだ海の色』
(2009年 20世紀フォックス 119分)
監督:中川陽介 脚本:中川陽介、板倉真琴、渋谷悠 主演:長澤まさみ
          Official / Wikipedia / Kinejun          

2009121901.jpg
(C) 2009 「群青」製作委員会

映像的には沖縄の自然風土が美しく描かれているし、沖縄というのは監督の美的センスを満足させるには恰好の舞台だったに違いありません。しかし、それ以外の部分で本作の舞台が沖縄である必然性がもうひとつ感じられず、物語的にも演出的にも、「絵」としての沖縄に頼りすぎて、そこに生きる「人間」を浮き彫りにすることを軽視してしまっているように感じました。

本作の致命的な欠陥を言えば、登場人物が沖縄に溶け込んでいない点であり、主要な登場人物が標準語を話している時点で、その作業を放棄していると捉えられても仕方がないように思われます。ましてや都会的な風貌の長澤まさみちゃんをキャスティングしている以上、本編には沖縄独特の雰囲気を盛り込む工夫が不可欠でした。

たとえば、「方言」というのは地方を舞台とした映画において、作品の雰囲気を決定付ける重要な要素であり、本ブログで取り上げた作品を例に取れば、『天然コケッコー』(2007年)の石見弁や『海がきこえる』(1993年)の土佐弁、あるいは『ココニイルコト』(2001年)の関西弁などが作品の印象に大きく貢献していました。本作の脚本は、「主演・長澤まさみ」であて書きしたものだと聞きましたが、彼女のそれまでのイメージを先行させてしまったが故の「方言軽視」だったような気がします。

いくら沖縄らしい実景ショットを連発しても、その直後に登場する人物が都会っぽい言動を繰り返してしまっては、そのギャップだけが際立ってしまい、作品全体に違和感だけが残ってしまいます。『ちゅらさん』のような沖縄を舞台にしたドラマのおかげで、沖縄独特の言い回しは全国的にも認知されており、本作においても随所に「なんくるないさぁ」というセリフを期待させる場面がありましたが、それを「心配いらん」のように言われてしまっては、沖縄を舞台にしている意味が半減してしまいます。

また、沖縄独特の雰囲気を盛り込むという意味では、物語にも沖縄の風俗を何らかの形で盛り込むべきだったような気がします。私は、沖縄についての民俗学に明るいわけではないので、あくまでも一般的な感覚で、この点にアプローチしてみたいと思います。

たとえば、涼子(長澤まさみ)の父・龍二(佐々木蔵之介)が、病気で将来に絶望している由起子(田中美里)のために何日もかけて採った宝石サンゴをお守りとして手渡すシーンは、南の島ではいかにもと言えるエピソードですが、逆に言えば本土の人間でも容易に想像がつくようなエピソードであり、むしろ本土の人間が考えたような安っぽさすら感じさせます。「サンゴのお守り」がリアルに存在する風習なのかは不明ですが、いづれにしろこのエピソードにもいまひとつ「沖縄らしさ」を感じることはできませんでした。

さらに、主人公の幼馴染である大介(福士誠治)が、一也(良知真次)の死後、涼子のために島に戻ってきますが、島伝統の焼物(陶器)を再生させるために芸大に進学したことが明らかになります。土をこねることによって涼子が閉ざしていた心を微かに開いていくというくだりは、大介の物語における役割を鑑みれば、よくできたエピソードだったと思います。しかし、これについてもそんな焼物がリアルに存在するものなのかは曖昧であり、その焼物については大介のセリフで触れられるのみで、沖縄の伝統文化としての描写は希薄なものにとどまり、やはりここにも「沖縄らしさ」を感じることはできません。

そして、身近な人の死にどのように向き合うかという本作のテーマを表現するにあたっては、たとえば、『おくりびと』(2008年)における「石文」のような役割を果たす、人の死の意味を捉える沖縄独特の風習や死生観ようなものを盛り込むべきだったような気がします。

私は、劇中に何度か登場する沖縄地方独特の「仏壇」を見たときにその方向からのアプローチを期待しましたが、「お母さんはいつもおまえの近くにいるような気がする」という「死生観」とも言えないような極めて曖昧な表現しかなされませんでした。これではラストに楽譜を飛ばした風の意味が、まったく字面どおりの意味でしかなく、「千の風になって」の歌詞と繋がってくるような抽象的で安易なエピソードは、物語の結末に至る過程を安直なものにしてしまっています。

人物描写についても沖縄らしさは希薄でした。たとえば、一也の仏前に献花しにきた涼子と大介に対する一也の母(洞口依子)の冷めた応対というのは昼ドラの一場面を思わせる安っぽいものであり、都会的な発想に基づいているような気がします。息子の死から1年が経過しても、それを引きずるっているような素振りを表面に出していると言うのは、南国に生きる人々の気風とはそぐわないのではないでしょうか。また、涼子の父の寡黙な海人(うみんちゅ)という人物設定も物語的には不可欠な要素ではありますが、これも南国の大らかな気風からはかけ離れてしまっています。

結局本作は、「海」という沖縄の表面的な魅力に着目したにすぎず、「都会人の旅行プラン」のような発想で作られた映画であって、そこに生きる人々もエピソードも終始都会人の発想で作り上げられてしまっています。その意味では、一也が涼子に想いを伝える「島唄」も観光客向けの余興を連想させるものであり、取ってつけたような感覚はぬぐえません。

調べたところ、原作者も監督も東京出身の方でした。私は原作を読んでいないので、原作者の執筆姿勢について何かを言える立場にありませんが、少なくとも監督が沖縄の風俗やそこに生きる人々の気風についての丹念な取材を軽視してしまったことは確かなような気がします。極端に説明的要素を省いたセリフ回しは、「絵作り」ありきの脚本を感じさせ、物語と演出の間にアンバランス感があったことは否めません。

総合評価 ★★☆☆☆
 物語 ☆☆☆
 配役 ☆☆☆
 演出 ★★☆☆☆(カメラワークとかカット割は好きなテイストなんですけど如何せん・・・)
 映像 ★★★★
 音楽 ★★☆☆☆


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